主夫で漫画家のムーチョさんのブログのこのエントリ、深くて鋭い。

「例の炎上ベビーカー記事のやり方は、バットマンに出てくるジョーカーみたい」

 

 

ことの発端は、ベビーカーの親子を助けない理由みたいなことを書いた炎上狙いの記事が出回って、それに対して、ムーチョさんが「釣られないように」みたいなツイートをしたら、「それは違うんじゃないか。ダメなものには早めにダメ出ししよう」みたいなリプが返ってきたということ。

 

 

これ、まさにジョーカーの思うつぼ。

ムーチョさんもリプを送った人も、「ジョーカーけしからん!」と思っているのに、なぜかムーチョさんとリプを送った人との間でのスタンスの差が問題になってしまう。

大同小異を突いて、混乱をもたらす。

これこそがジョーカーの作戦でしょ。

それを見抜いて大人の対応をしたムーチョさん、すごいと思う。

エゴを捨てて、全体を俯瞰できる目って、こういうことだと思う。

 

 

ムーチョさんがスルー作戦を選択したのは、たぶん、あのジョーカーの記事が、本気でベビーカーの親子を貶めようとしているのではなくて、単にPVを目的としているからでしょう。

ムーチョさんが、「今回のアレはあまりにもいろんな意味で低俗過ぎたので、反応するに値しないものはスルーもアリかなあと思いました」とツイートしたときの「低俗」とは、その論説がいいとか悪いとかではなくて、「正義も信念も覚悟もないから放っておけば自然鎮火する」ということだと思う。

僕も個人的にはそう思う。

酔っ払いの戯言みたいな挑発にいちいち乗っかってはいけないでしょう。

こういうケースでは、スルーする力というのも必要だと僕は思う。

 

 

気になるのは、今回のベビーカー記事のことを、在○会の広がりと同質であるとする捉え方があること。

僕はそこは違うんじゃないかと思う。

在○会には、(それが正しいかどうかは別として、)彼らなりの正義と信念と覚悟がある。

特定の人たちを本気で貶めようとしている。

それこそが目的だ。

PVが目的ではないから、誰かが火に油を注がなくても、自分たちで拡大しようとする。

放っておいても自然鎮火しない。

だから鎮火したいと思ったら、スルーするわけにはいかない。

 

 

という意味で、単なる炎上狙いの記事と、それなりの正義と信念と覚悟をもって行われる意見表明は、本質的に違う。

見た目の構造だけにとらわれて、本質的な違いを見落とすと、まんまとジョーカーの術中にはまる。

後者にはときどき反応するが、前者には反応しないというのが、僕のスタンス。

 

 

炎上狙いの記事というのは、心理学の「交流分析」における「ゲーム理論」に似ている。

そもそも表面上表れているメッセージが本心ではない。

相手をいらつかせることが目的なのだ。

それにいちいち反応することは、無意味なゲームの進行を手助けすることになってしまう。

心理学的には、仕掛けられた「ゲーム」に対しては、うかつに乗っからないことが適切な対処法とされている。

 

 

「小さなうちからつぶしていく」みたいな話も出てきたけど、ネットなんだから好き勝手なことを書く人はいくらでもいるわけで、それをいちいち摘発してみんなでダメ出しするって社会もどうかと思う。

ましてや「ベビーカーは迷惑」と表明することを、一方的に「悪」や「罪」であるとして取り締まろうと考えるのは、危険だと思う。

言論統制になりかねない。

その点が、NYのジュリアーニ市長の軽犯罪取り締まりとも違う。
さまざまな意見があって、中にはボタンの掛け違いもあって、それらをどう折り合わせていくかを議論することによって社会は進歩する。

「ベビーカーは迷惑」という考え方は僕個人の考えとはまったく相容れないが、でも、そう思う人がいることは事実であり、こちら側の立場から見て彼らを悪だとか罪だとか一方的に決めつけることでは何も解決しない。

ムーチョさんが言うように、対立構造を深めるだけだと思う。

 

 

いざ、スルーするわけにはいかないとなった場合に関しては、ムーチョさんにリプしたまりさんの「相手や記事内容に反論するのではなく、きっかけにして自分なりの意見を伝えるのが正しい乗っかり方だと思います」という意見に僕は同意する。

そこは「ダメ出し」よりも「ポジ出し」でしょ。

 

 

以上、ベビーカー論争というよりも、「炎上狙いの記事にどう反応すべきか」ということに関しての私感でした。