拙著『男子校という選択』では、「男の子は徹底的にバカをして、失敗から学ぶことが多い。女子が一緒にいると失敗を見られることを嫌い、バカをしにくくなるが、男子校ではそれがない。思いっきりバカをして、失敗し、失敗から学ぶことができる」というようなことを書いています。これは多くの男子校の先生たちから聞いた話に共通する男子校のメリットです。
でも、そもそもなぜ、男子は「失敗から学ぶ」傾向が強いのか。その点については、拙著の中ではあまり深入りはしませんでしたが、ここであらためて考えてみたいと思います。
ただし、何の科学的根拠もなく、あくまで私が頭の中だけで組み立てた仮説でしかないことを最初にお断りしたうえで、お話ししたいと思います。
「人間は、言葉を持ち、伝承つまり“教育”ができるようになったことで、自らが進むべき進化の方向性を自分で決められるようになった。人間は、よりスピーディに環境に適応するため、“教育”という“新しい進化の方法”を身に付けた生物なのではないか」と思います。
ダーウィン的な進化の方法では、淘汰され、数世代をまたがないと、有効な能力を強化し、伝えることができませんでしたが、教育という手段を身に付けたことで、世代をまたがなくても、生きていくうえで必要なスキルを、直接次世代の子どもたちに伝えることができる。
これによって、「進化」のスピードを早めることができた。
話しをシンプルにするために、狩猟採集民族の生活をイメージしてください。
たとえば、誰かが「バッファローを狩って食べることはできないか」と考える。
槍を作って挑んでみるが、あえなく討ち死にする。
「それでは」と、別の誰かが、「落とし穴を作り、部族のみんなでバッファローをそこに追い込む」という方法を思いつく。
それがうまくいく。
すると、その部族はバッファローという新しい糧を得て、繁栄する。
「こんなことをしてみたらどうなるか」と、あれこれ「実験」してみる。
実験に失敗はつきもの。
時には命すら落とす。
それでも諦めず、失敗から学ぶ(=学習)ことでで、生き抜くことを有利にする新しいスキルを獲得する。
そのスキルをすぐに次世代に引き継ぐ(=教育)ことで、ヒトは飛躍的に進化したのではないかと思います。
ところで、ヒトは一回の出産で、基本的には一人の子孫しか産めません。
優秀な子孫をたくさん増やすためには、女性がたくさん必要です。
しかし、優秀な男性は少数でもいい。
生物学的には。
だから、リスクを冒すのは男性であるほうが効率的。
だから、進化という文脈において、男女の役割が分化した。
つまり、
男性は「リスクを冒す係」で、
女性は「普遍的でいる係」なのではないか。
数学に例えると、女性が「定数」で、男性が「変数」要素として、出てくる「解(=次世代)」を変化させる役割なのではないか。
だから、槍でバッファローに挑むような無鉄砲は、男の役割として、本能に組み込まれた。
そう考えると、さらに、もっと遺伝的に男性がリスクを犯す役割を担うように仕込まれているんじゃないかと妄想は膨らみます。
例えばこうです。
生物的に、あえていろいろな特徴を持った多様な男性を作り出しておき、環境が変化しても絶滅のリスクが少ないようにできている、とか。
ときには彼らを「本能的に」さまざまな未知なる環境に誘い出し、そこに適応できるかどうかを試し、うまくすれば生息地域を拡大する、とか。
つまり、男性が遺伝子的な多様性を担保することで、様々な環境適応へのリスクを回避するような仕組みになっていたりして、、、なんていう妄想です。
(もし、本当にそうだとしたら、男性は女性よりも、「個体差が大きい」という傾向があるはずだと思うのですが、そういうことが科学的に検証されているのかどうかは全く知りません。。。)
以上の話しをまとめますと、、、
1自然淘汰と、
2失敗からの学習と次世代への教育
により、ヒトは飛躍的に進化した。
進化の方向性を吟味するための「実験台」、もっといえば「毒味役」としての機能を、男性は本能に埋め込まれた。
そして、未知なることに挑戦し、失敗しながらでも新しいスキルを身に付ける能力に長けた男性が多くいる部族ほど進化を加速し、多くの子孫を残すことができた。
男が「バカ」であることが、人類のフロンティアを広げたということ。
だから、男性は、本能的に無茶なことに挑戦したがる。
一見無意味なバカなことをやろうとする。
バカであることに意味がある。
一方女性は、遺伝的にも安定し、失敗すれば命を落とすようなリスクは犯さない存在であり続けた。
いってみれば、女性はヒトとしてぶれない幹のようなもの。
幹が簡単に変質してしまうのはリスクが大きいから、あまり変化しない。
一方男性は、どっちの方向に進むのがいいか、錯誤しながら伸びる枝葉のようなもの。
環境によって自在に形を変える。
適応できなかった部分は幹からそぎ落とされる。
生物学的に、女性のほうが男性よりも強い存在であるというのも、幹と枝の関係だからではないでしょうか。
長くなり、わかりにくくなってしまいました。
すみません。
要するに、「種の保存」という観点でいえば、女性が「主人公」であり、男性は女性のための「毒味役」なのではないかということです。
(そのほかに「ボディガード」や「食料調達係」などの役割ももちろんありますが、要するに女性が主役ということです。)
こう考えると、一般的にいわれる男女の違いの傾向について、いろんなことがしっくりくるのですけど……。
こういう研究されている学者さんとかいないのかな。
こういうのは何学っていうんだ?
単なる生物学でもないし、文化人類学だけでもないし。
さて、さきほど教育は人間が手に入れた新しい進化の手段なのかもしれないということを書きました。
ダーウィンの進化論的にいえば、多様な進化を遂げ、多様な子孫を残す種ほど、生き残り、繁栄する機会が増えます。
多様性が優秀な進化のキーワードです。
だとすると、教育も、多様なほうがいいはずだということになります。
ファシズム的な教育はリスキーだということです。
私は常々、「教育や子育てには多様性が必要」と申しております。
そういうことなんです。