生徒を縛るようなルールを意地でも設けないことで知られる名門校、灘や麻布でも、スマホに関してはルールを設けざるを得なくなってきているという記事。これ面白い。
「ついに灘・麻布でも規制! 名門校教師も怖れるスマホの中毒性」
http://allabout.co.jp/newsdig/w/66473

私は、河崎さんみたいに面白くは書けないのだけど、これに関連して、スマホ問題について、前々から思っていることを徒然に書いてみようと思う。

人間はつねに、「便利だけど危険なもの」の危険を少しずつコントロールすることを学習しながら進歩してきました。
はじめて蒸気機関車が走ったとき、もの珍しさに集まった観客が何人も轢かれて亡くなったそうです。
そんなに危ないものであることがわからず、接近しすぎてしまったそうなのです。
そうやって痛い目に遭いながらでも、少しずつ危険と利便性のバランスをとるのが、人間の知恵といわれるのでしょう。

子どもが最初に触れる危険なものは、火、刃物、高所の3つではないかと思います。
そこで、危ないからハサミは触っちゃダメ、ライターは触っちゃダメ、木に登っちゃダメとやっていると、いつまでたっても、ハサミの使い方、ライターの使い方、高所でのバランスの取り方を身につけることができません。
親の監視の下、ときには痛い目に遭うことを承知で適度に危険に触れることが必要だと思います。
そうする中で、ツールとしてのハサミやライターの使い方を覚えるだけではなく、これ以上高いところに上ったら危ないぞとか、これ以上火に近づくと火傷をするぞとか、ハサミをもっているときはまわりにも気をつけなきゃとか、危険なボーダーラインを認識する感覚も磨かれていくのだと思います。
いわゆる危険察知能力というようなものです。

火、刃物、高所という基本的な危険に対する危険察知能力すら磨かれていないのに、もっと高次元な危険に対する危険察知能力が機能するわけがないと私は考えています。
子どもの世界にあることでいえば、先ほどのネットもそうですし、テレビゲーム依存もそうでしょう。昨今話題のいじめの問題もそうでしょう。「これ以上はやばい」という感覚がなければ、どこまででもやってしまいます。

そういう感覚がないまま大人になると、ギャンブルにつぎ込んでしまったり、薬物に手を出したり、業務上横領をしてしまったり、不倫相手とどこまでも失楽園してしまったり、詐欺にあったりという、「一線を越えてしまう」リスクが大きくなるのではないかと思います。

大人だって、最近、ネットバンキングの画面上に出てくる偽画面を通じて、個人情報を盗み取られ、預金が引き出されるという被害が出ているといいますよね。
今の大人が子どものころはネットなんてありませんでした。
自分でいろいろ勉強している人はいいですけど、なんとなく最近使い始めたひとなら、いとも簡単に引っかかってしまうのでしょう。
ネット上での危険察知能力が未発達なんですね。

何が言いたいかというと、「だから、親の目が行き届く小さなうちから、親の監視の下、上手に危険と触れ合う体験をたくさんさせておきましょう」ということです。
ネットを触らせるなら、フィルタリングをかけるなどの処置はもちろん、ネット教育がマストでしょう。
だって使い方も教えないで、いきなりチェーンソーを子どもに使わせる親はいないでしょう。
かといって、これからの時代、ネットだっていつまでも避けて通れるものではないですから、いつかは使いこなせるようにならなきゃいけないのです。

今の中高生が小学生のころ、ようやくスマホが一般的になってきたのです。彼らにスマホへの免疫がないのは当然でしょう。だから大ケガをしてしまうケースが増えているのでしょう。
そういう意味では今は過渡期なのだと思います。

だからといってスマホをできるだけ遠ざけるのでは逆効果だと私は思います。
ずっと遊びを知らなかった人が「社会人デビュー」なんてしちゃうとはっちゃけちゃうことがあるのと同じです。免疫がないまま大人になるほうが怖いのです。

中高生になっていきなりスマホを買い与えるのではなく、もっと小さなころから、親のいうことを少しは聞くうちに、徐々に慣らしていくことのほうが長い目で見れば効果的ではないでしょうか。
その過程では失敗も当然します。ナイフで手を切ってしまうようなものです。でも近くに親がいるからすぐに手当ができる。中高生みたいに無茶をする前の時期なら、大ケガにもなりにくい。それが大事なのではないでしょうか。

ちなみに、人類が手にした最も「便利だけど危険なもの」って何だと思いますか?
スマホでも原発でもありません。
「自由」だと私は思います。
それを使いこなせるか。今、この国に暮らしている私たちはそれを試されているのだと思います。スマホと全然関係ないですけど。