今年もスズムシの卵が孵化した。

スズムシ


ありんこよりちっちゃな命が、一生懸命生きている。

まだまだ小さいけれど、残暑のころには素敵な演奏を聴かせてくれる。

実際は、オスがメスからモテたい一心で羽をふるわせているわけだけれど。


今年のスズムシは、一昨年ペットショップで買ってきたスズムシの孫にあたる。


カブトムシも成虫になった。
こいつもう4代目か5代目。

カブト

 


ノコギリクワガタは、もうかれこれ4年前に飼っていた成虫の卵が2年かけて成虫になり、地中でそのままさらに1年過ごし、ようやく今年地上に出てきた。

雄雌いるので、また卵を産んでくれるだろう。



クワガタ

 


うちにはたくさんの生き物がいる。
子どものためといいつつ、僕自身が好きだから。
仕事の合間に彼らの世話をするのがちょっとした息抜き。

そんな命の連続を見ていると、命ってなんだろう、子どもを育てることにどんな意味があるんだろうなんてことをときどき考える。

そしてこんな風にイメージする。



冷たい暗闇の中に、一つの炎がポッと現れた。
その炎が消えてしまう前に、その炎は別のものに自分の炎を移した。
炎は増えていった。
世界はちょっぴり明るく、温かくなった。
 
その炎を絶やさないように、それぞれの炎が、自分が燃え尽きてしまう前に、できるだけ多くの炎をうつそうとする。
僕たちの命はそうやって何十億年も続いてきた。
何十億年も受け継がれてきた炎を、今、一瞬、僕が預かっているだけ。
オリンピックの聖火ランナーのように。
だから僕の命は僕の物ではない。
僕の命は「ひとつのもの」でもない。
そう、命はもともと「ひとつ、ふたつ」と数えられる物ではない。
ずっとつながっている、脈々としたひとつの「流れ」のこと。
 
「これは僕の命である。だから自分の好きなように使っていいはずだ」という論理は、大きな川に流れている水を手のひらですくって、それが自分のものであると言っているようなもの。
自分は、もっと大きな流れの一部でしかない。
 
こういう言い方もできる。
元を正せば、僕の命も、アリの命も、同じ炎。
元を正せばひとつの炎を、あるものは小枝にうつし、ある物はろうそくにうつし、あるものは木炭にうつしたようなもの。
いろいろなものにうつしておけば、いっぺんに消えてなくなってしまう危険性は減らせる。
そうやって、僕たちは、アリも人間もミジンコも、みんなで「命というひとつの大きな流れ」を支える役割を分担している。
 
たとえば僕を1本のろうそくにたとえるのなら、40歳の僕というろうそくは、もう半分以上燃えてなくなっているということになるだろうか。
でも、すでに二人の子どもたちにその炎をうつしている。
その炎が途中で消えてしまうことのないように、必死で守り続けている。
2つの小さな炎が、さらにたくさんの炎になっていくことを願いつつ。
今はそのことだけで精一杯。
 
あんまり難しいことを考えず、みんながそのことに集中すれば、世界はもっと明るく、温かくなるはずなのに、と思う。
 
ただし、僕にとってかけがえのないその小さな炎を守っているのは僕と妻だけではない。
親戚も、先生方も、地域の皆さんも、みんなが守ってくれている。
子どもがいない人でも次世代の炎を守っていくことはできる。