先週末、私のライバルが死にました。
ライバルといっても猫なんですけど。

なぜ猫とライバルなのか。
妻からの愛情を争うライバルです。
全戦全敗だったのですけど。

その猫は私が妻とつきあい始める前から妻の家に住み着いた元野良猫です。
つきあっているころから、猫が怪我しただの、調子が悪いだので、デートをドタキャンされた回数は数知れず。
というのも、妻は元々幼少の頃から猫大好き人間。
その溺愛ぶりは異常なほどだったと義理の母は言います。

結婚をすることになり、一緒に暮らす新居を探そうという話になったときには、「この子がいるからこの部屋を離れられない。この子が死ぬまでは別居婚にしましょう」とまじめに言われました。
今思えばありえへん話なのですが、私も私で「あ、そうか。じゃ、キミの部屋の近くに私も部屋を借りるよ」なんて不動産屋さんを回りました。
結局妻のお友達が「それはおかしいよ」と助言をくれて、私たちは新婚生活を同じ屋根の下で迎えることができたのですけど。
子連れ妻ならぬ、猫連れ妻という形で。

それからも何かにつけて猫優先。
私は猫も含め動物大好き人間なのですが、本気でジェラシーを感じることもしばしば。

それが逝ってしまいました。
食欲がなくなり、様子がおかしいと気づいて動物病院に連れて行くと「腎不全」の診断。
それからちょうど1週間でした。
元野良なので、正確な年齢はわかりません。
妻が面倒を見出してから13年。
たぶん15-16歳にはなっていたと思うのですが。

さみしいものです。
5歳の娘はあまりわかっていないようですけど、9歳の息子の落ち込みようといったらありません。
4年前、私は母を膵臓癌で亡くしました。息子からすればおばあちゃんの死です。
しかし、息子は言います。
「おばあちゃんが死んだときよりも何倍もショックだ・・・」と。

この4年で息子の認知レベルが格段に上がっているのですね。
私も9歳くらいに愛犬をなくしました。
「これから自分は成長して大人になっていって、何十年か生き続けるんだろうけど、これからずーっと、2度とあの犬には会えないんだ」なんて、死がもたらす当たり前のことを初めて実感したときでした。
それから自分の視野がぐっと広がった気がしたのを覚えています。
今の自分を中心としてしか世の中を捉えられなかった子どもが、永遠という時間を意識して、自分の存在のちっぽけさ、はかなさに気づいた瞬間でした。
猫の死は、息子にとってそういう意味を持つのだと思います。

我が家の壁や柱はぼろぼろです。
猫が壁や柱や網戸をガリガリと削っていましたから。
猫が削った壁紙を子どもがさらにはがす、みたいな。
「早く修繕しなきゃな。でもいくらかかるんだ?まったく猫のせいで・・・」と思っていました。
でも、しばらく修繕できません。
猫がそこにいるときは、「みっともないキズ」だったものが、今では「大事な思い出」です。
お金をいくら払っても再現することのできない「爪痕」です。
その爪痕を見るたびに、涙がこみ上げてきます。

妻はまだ悲しみのどん底。
毎日骨壺を枕元において寝ています。
死んでもなお、私にはかなわない相手のようです。

※BRASH公式ブログより転載です。
http://blogs.brash.jp/toshimasaota/archives/24