僕の仕事部屋からは路地裏で遊ぶ近所の子どもたちの会話がよく聞こえる。
息子は近所の年上のお兄ちゃんたちと毎日のように遊んでは毎日のようにけんかして大暴れする。
ドッヂボールなどのゲームをして遊んでいるときに、誰かがズルをしたり、ルールを悪用したりしたときに、うちの息子が烈火のごとく怒るパターンが多い。
息子の主張はもっともなことも多い。
その怒り方がやりすぎなので、みんなから相手にされない。
それが息子の怒りに油を注ぐ。

子どもたちの会話をそっと聞いていると、どうもみんなをまとめるリーダー格になるガキ大将がいない。
本来ガキ大将になるべき年長者がすすんでズルをしたりしている。
そして、なんとなく「ルールだから」とかまわりの雰囲気とかで物事が決まっていく。
もめ事が起きたときも、みんなが納得するまで話し合うというのではなく、表面的に早く収まるようにする傾向が見て取れる。

子どものけんかに口を出すのは御法度だし、この状況では息子の肩を持つことになるので、気は進まないのだけど、あまりにコミュニケーションが下手なので、最近2-3度子どものけんかに口を出した。
口を出したといっても僕が裁判官のように物事の善し悪しを判定したり、ルールを決めたりするのではない。
双方の言い分がどうして食い違っているのかを通訳して、お互いに納得するように話し合いなさいというだけ。

「○○くんはルールに従っているだけ」と考えている。
「でも○○のほうはそのルールはフェアじゃない」と考えている。
などという食い違いだ。
ルールを守るのは大切だ。でも、ルールは絶対じゃない。おかしなルールは変えていかなければならない。
そのことは今の子どもたちにもっとも伝えたいことだ。

坂本龍馬、チェ・ゲバラ、ネルソン・マンデラ・・・偉人といわれる人たちは「このルールってほんとに必要?」を徹底的に疑い、おかしなものを変えてしまった人たち。
偉人にならなくてもいいけど、そのスタンスは人間としてとても重要。
しかし、学校教育などでは「それはルールだから」を水戸黄門の印籠のように振りかざす場合が多い。


「けんかはしてもいい。そのかわり、仲直りするまでがけんか。お互いに納得するまで話し合って、必ず仲直りしなさい。仲直りする前にその場を離れることがいちばんいけないこと!」という大原則を話した上で、「ルールだって絶対じゃない。誰かがルールのおかしなところに気づいたらみんなでそれを考え直さなきゃいけない。それも遊びのうち」と子どもたちの前で演説して見せた。
本来、そういうことはガキ大将の役割なんだけどね。


結果的に自分の息子をかばうような立場になってしまったので、内心、「うざい親」と思われたかなと心配な部分もあったけど、そんなあるとき「ピンポーン!」とインターフォンがなった。
うちの息子が麦茶のパックを近所のお兄ちゃんの顔にぶつけたらしい。

息子の悪さを近所の子どもたちがちくってくれることに、僕はほっとした、僕が決して自分の息子をかばおうとして口を出したのはなく、一人の大人として客観的に、公平に話をしていることが伝わっているからだと思ったから。
この大人に話せば、ちゃんと理解してくれるという信頼を得ているように、自分では感じられた。


こうやってけんかをさばく技術を誰かが教えないと、ガキ大将は育たない。
昔は代々のガキ大将がその技術を継承してきたのだろうけど、今の希薄な地域社会ではそんな継承は望めない。
だとしたら、必要に応じて、ときには地域の「おやじ」がガキ大将の役割をつとめなければいけないシーンもあると思う。

子どもに「けんかは悪いこと」みたいにいう大人が多いのは残念だ。
けんかの目的は相手をたたきのめすことではなく、そのさきにある相互理解。
そのことを忘れているのは大人のほうが多い。
子どもの時に十分にけんか力を鍛えられなかった人は、大人になってからちょっとのことで傷ついてしまったり、相手の気持ちを理解する能力に欠けていたりする。
切磋琢磨しながらお互いを高めあうことができない・・・。
地域に頼りになるガキ大将が一人でもいれば、多くの子どもたちが生きる力を身につけられる。
でも、今の教育ではガキ大将こそ、「乱暴者」というレッテルを貼られて、最初にたたかれ、去勢される。

ガキ大将を守ろう!