松田俊政のマッコイ俳遊記 -5ページ目

タイムカプセル


調布だったかな。どこだろう。ドラマの撮影の時のやつ。

「今度、写真送るね」という写真が12年後に送られてきた。数日前に。まるでタイムカプセル。


なんで、じゃなくて。

これからどう自分は生きていくのか。考えさせられる。月曜になって急に。

チーズはどこに消えた、じゃないけど。なんで消えたのか、ずっと考えててもしょうがない。

彼と会ったことがある人も、そうじゃない人も。どうする事で供養になるのか。今後の自分の行動に何かをプラスすることが大切だと思う。


マサ姉ちゃんが死んだとき、僕はマサ姉ちゃんと約束した。葬儀の時に。もうお風呂場でおしっこしません、って。

マサ姉ちゃんの死を自分の生の一部にしたくて。勝手に約束をした。

それから1回もお風呂場でおしっこをしていない。

約束を守り続けることで僕はマサ姉ちゃんを供養し続けている。


急に大きなことはできないから。

僕は車の運転をしているときはいつも以上に道を譲っていこうと思う。もっと。お節介な程に、になると事故が起きてしまいそうだから、そこはバランスだけど。

譲る、は心と時間に余裕がないと難しい。だからつくっていかないと。

今日も、今すぐ僕ができることの1つ。


もしかしたら、自分を含めた誰かが彼に道を譲ってあげていたら。こんなことはそんなことじゃない、僕もそう思う。でも『そんなこと』の積み重ねはあると思う。良いことも悪いことも。紙と一緒。一枚一枚は薄くて気にならないけど。重なっていけばいつの間にか両手でも持ち上げるのは難しくなってくる。


もし、僕を含めた誰かが彼に道を譲ってあげていたら。

もう1回書いておくけど、そんなことじゃないのはわかってる。けど、これはしょうがない。頭に浮かんだことだから。浮かんだことだから、僕は意識してそうしていこうと思う。譲るときはできるだけ笑顔で。そうすることで彼への供養として生きたい。

迷う。

‪今月に入って、名前もわからない30才くらいの女性とほぼ毎日顔を合わせている。挨拶くらいしかしたことがない。顔を合わせるのはほんの数秒。そんなルールはないけど、お互い同時に挨拶をする。‬

‪おはようございますと挨拶をすると、向こうは「こんにちは」。
毎回このパターン。挨拶が合わない。
ビッグデータから分析して(7回くらいしか会ったことないけど。)、この時間は向こうにとってはもうお昼なんだな、と昨日判断した。次会ったときは「こんにちは」に変えてみよう。そう決めた。そして『次』がさっき来た。

ちょっとドヤ顔が入ってしまったかもしれない。「こんにちは」と声をかけると、向こうは「おはようございます」……だった。
……なんで?   いつもと同じ時間帯なのに。‬
ちょっと変な空気になった、気がした。
もしかしたら向こうも変えてきたのかもしれない。向こうは向こうのビッグデータを分析して。合わそうとしてくれて。今回。だとしたら、かなりのT-BOLAN。超すれ違いの純情。

‪次がまたすぐくると思う。しらんけど。どうしよう。次は。どっちにしようか。迷う。思い切って「こんばんは」にしてみようか。いや、昼前にそれはやばい。どうしよう。迷う。‬

‪とにかく、まだ一度も同じ挨拶をしたことがない。‬

スティーブ・マチュオフ


僕の帽子

5年くらいビートルの後ろに飾っていた。夏でも冬でも。一年中。紫外線でぼろぼろ。手に持っただけでどこかしらが崩れ落ちる。今日も。でもこれはこれでなんだかかっこいい。冒険してるみたいで。気に入っている。



俳優時代5

ロケ地は川崎のラ  チッタデッラ。





衣装を着てスタンバイすると、三池崇史監督がこうおっしゃった。

「覚えてきた台詞、全部忘れて」

監督はその場で関係性をつくり、台詞や関係性を僕たち3人に伝えていった。

僕はぴこぴこルンルンの打ち合わせの詳細を話す役回りになった。


本番で僕は2度NGを出した。

ムロツヨシさんが「大丈夫大丈夫。大丈夫だから。俺もいつもNG出しまくってるからさ。次オッケー出るよ。大丈夫大丈夫」と小声で励ましてくれた。

次のテイクでオッケーが出たときのムロさんの顔が忘れられない。


それでは、

飲みます。

 



俳優時代4

10年くらい前に撮影した映画。この映画が僕をゆうばり映画祭に連れて行ってくれた。脚本は園子温さん。




顔合わせは監督の自宅だった。

僕の出演シーンの撮影は、都内にある元病院の建物だった。

銃で撃たれて血糊まみれになった。スーツはもちろん、パンツの中まで。

俳優時代3

「着る服だけど。この前のと一緒の服で」


事務所の所属が決まって数ヶ月後。宣材写真の撮り直しがあった。これは21歳だと思う。



当時、その事務所に所属していた男性は僕を含めて3人だった。その中には『園芸王子』もいた。


男性陣の顔合わせのような形で青山のスタジオで撮影が始まった。

俳優時代2

今日も書斎の片付け。パンドラの箱的存在のクローゼットを開けた。今日は午前中で終わらせられない自信がある。

‪MARS16のTシャツモデルをさせていただいた時の雑誌が出てきた。‬これは23歳くらいだったと思う。
‪1ページでドドンと自分が載ったときは、当時バイトをしていた不動産屋でシフトに融通をきかせていただける免罪符となった。

‪撮影場所はお台場の海沿いだった。よくドラマで使われているロケ地。テレビで目にする度に「あそこだ」と思い出す。‬
現場には当時乗っていたビックスクーターで行った。グランドマジェスティというYAMAHAのバイクに乗っていた。
ヘルメットで髪型が潰れることを考えたら電車で行くべきだった。今ではそう思う。‬

ゲームTシャツの撮影だったので小道具としてPS2のコントローラーを家から持っていった。使える使えないかは現場でご判断していただいたらいい。選択肢が増えることは良いことだから。
持っていったコントローラーは採用され、他のカットで小道具として使用した。水色のTシャツだったと思う。
この日、何着かのTシャツを着させていただき撮影した。

‪Tシャツ会社のMARS16北山社長を、僕は撮影現場でずっと「北村さん」とお呼びしてしまっていた。撮影後に「さっきからマッコイ(僕のあだ名の一つ)は北村北村って言ってるけど北山だからな」と違う方が教えてくれた。ご本人は「よく間違えられるから大丈夫」と笑ってくださっていたけど、すごい失礼。とんでもないこと。今でも反省している。‬

こうやって露出できるのは周りの人の力。そしてお気持ち。これ、本当にそう。謙遜してるとかじゃなくて本当にそう。自分じゃなくても代わりはいくらでもいる。本当にいる。目立てるのは神輿と一緒で担いでくださる方々がいるからこそ。これは売れていても売れていなくても。ここ勘違いした人は遅かれ早かれ落ちると思う。こういうことは普段の日常生活でも起こりうる。‬例えバイト先だとしても。

‪その後、北山社長の個人的なご厚意でゲーム会社や映画制作会社へ売出していただいていた時期があった。マネージャー業務である。
一番印象に残っているのはファルコムへ行けたこと。小さい頃『イース』をやっていたからファルコムの社長とお会いできたことに感動した。

北山社長と一緒に三軒茶屋へ本読み(制作前の作品の台本を読んで合う役があれば売り込むこと)にも行った。小栗旬さんの事務所内にある制作会社だった。読ませていただいた本とは違う作品でキャスティングしていただいた。映画『リアル鬼ごっこ』に出演できたのも北山社長あっての事。今でも感謝している。‬