54:00

この世は実在界にあらず、見える世界は実在界にあらず。見える世界は見えない世界の投影にすぎない。いかにこの世でどんな振る舞いをしても投影です。


ここは映しの世界です。その映しの世界を現実的・実際的だと思い込む心が我の心。

皆さん方は霊です。霊のみが生きて働き、智慧も力もあります。肉、見えるものに智慧も力も言葉もありません。何回、身内のこの世から霊が去った抜け殻を見れば気が済みますか?

55:00

何回も見たでしょう。霊が抜けた抜け殻に言葉・息・力・智慧がありましたか?

原因が抜ければ結果は身動きもしない、自らは無・ゼロである。残念です。抜け殻に生きて内にある偉大な宝物、久遠なる常在する自分を忘れてるのじゃないか。

外は結果・無常。内は原因・常在・久遠なるもの。これが実体・実相です。内にて生きよ、外は影・表現です。


皆さん方は外なる物の影響を受けて 今まで悲しんだり苦しんだり恐怖したりしてきたけど、そんなものを信ずるがゆえに現れたもの。内を見れば完全無欠・愛・調和そのもの。 


56:20

もうやがて沖縄もあと3日迫りました。もう最終的な教えをしています。土曜日まででお別れします。しかし皆さん方はここまですれば私を必要としないということです。あなたの中にあなたの偉大な指導者、汝の主なる神がおられるからです。


57:00

私は離れた方がいいだろう。なぜなら私という知花の個我に盲信してたら、あなた方は偶像崇拝者にすぎない。

汝の主なる神、救い主はあなた自身の中に一人一人の中におられることを体験したからです。

私と皆さん方の違いは何か、一歩先にこの神我なる神に私が頼ってるだけにすぎない。このようにすれば、みんな同じようになりますよと道を示してるだけです。何も皆さんの中におられる神我と私の中におられる神我と変わるものじゃない。同一の物・力・智慧で、神ご自身であります。

58:00

だから私知花が特別の者でも何でもないことを、ここで断言します。同じ知花を通して語りたもう神が皆さんご自身の中におられる。私はそこから智慧・言葉を汲み出して語ってるだけです。皆さんも同一です。


これを受け入れるか、受け入れないかだけです。素直に受け入れてください。そうすると同じような知花のような体験をします。特別な人間は世の中に一人もおりません。おるというなら彼の理論は間違ってます。あの人は特別だと言うなら、自分の中に同じ神がおられることを無視してます。もうその言葉自体、迷いです。


59:00

もう皆さん方は私を恋しがる必要はありません。私は一度だってあなた方から離れることなく、いつも皆さんの中におる私です。またあなたは私の中におるあなたです。

たとえこの沖縄から結果という現れの私が・現象我がここにおらなくても、意識の面においてみんな同じ所におるのじゃないですか。いつでも語り合えます、寂しいということもありません。時間も空間も識別も区切りもないからです。


59:46

イエスもちょうど12の弟子に「私がここにおる限り12の弟子は私に頼るから私は去った方がましであろう。去った方がよかろう」ということで3年間の法を説いてすぐ身を引きました。身を引いてこそ彼らの12の弟子は目覚めたのです。


何ぜなら頼る者がなくなれば、自分以外に自分を救い 頼れる者がないということを強烈に感じるようになったからです。

皆さん方も人に頼ってる限り強くなれるものではありません。頼れるのは汝自身と気づき始めて強くなるものです。人に頼ってる限り物乞いです。皆さんの中に偉大な智慧・力・愛があるのです。全智全能の神ご自身が皆さんを通して顕現したくて待っておられます。

61:00

その神を常に意識して、あなた自身の結果である人間に顕現せしめればいいのです。同じことが皆さんに起こって初めて多くの人類救済のためになるのです。


そして皆さん方はキリストの見本を示さなくてはならない。内なる神を見本としてあなたの結果の世界に現すことを神我顕現、即ち地上に神を現すことが大切です。それができてこそ調和・愛・完全そのものとなります。もう不完全なる現れ方はしません。


それが本当に汝自身の主なる神を愛せよという意味です。あなた自身の主なる神はあなたの中に生命としておられますから、その神を霊拝し、あなたの結果という人間に顕現せしめることが一番大切なことです。

62:10

もう皆さん方は寂しい思いも何もないと思います。もう外に神を求めることもないと思います。外に指導者を求めることもないと思います。もし外に指導者を求めようとしたら、あなたは汝自身の神を愛してない。本当に信じてない。神我・キリストを受け入れてないということになります。


本当に我を信じ、受け入れる者は救われるであろうと言った通りのものです。我を通さずにして御国に入らず、神我を通さずにして御国に入らず。

神我とはキリストであると同時に仏陀です。神我=真我とは真の我です。見えるものの中に存在する実体・実相、それが真我キリストであり仏陀です。

63:00

キリストが嫌なら仏陀でも真我でも結構です。キリストと言われたら笑われるから、仏陀と言われたら笑われるから。無知なる者に笑われたら痛いんですか、痒いんですか?痛くも痒くもありません。それを理解しない者に何と罵られようが貶されようが、彼らはなす術を知らない外側の結果で生きてる人間に何と言われようがあなた方はびくともしない自分にならねばなりません。


無知なる人の目や言葉を気にする必要はない。あなた方の信じなければならないことは外なるものではなくて内なるものです。外なる目や言葉を気にするなら、あなたはまだ外に生きているということです。

64:00

内なる本物には死んで、外の結果人間の悪しき言葉にサタンの誘惑に負けてるということです。

私はいかなる人間に悪評であろうが好評であろうが、私の内なるものにとっては何の関係もありません。悪評・好評を受けようが私自身はみんな一体でありますから、どちらでも結構です。

悪評を飛ばしてる彼自身も神であります。ただ、なす術を知らぬがゆえなんです。私を憎んでる者は自分で自分が神であることを知らぬ、私との関係を知らぬがゆえに結果として外側の世界に生きてるゆえに人の悪口を言うのです。

人の罵りは外に生きてる者のみにあります。内に生きていれば人を罵りません。不調和は外に生きてる者のみにあります。

65:00

外に生きていたら人の悪口・嫉妬・怒り・憎み、悪しきものは全て外なる人間のみにあります。内を見れば愛あるのみなんです。調和あるのみなんです。大調和に生きましょう。皆さんは愛そのもの調和そのものです。


どうか皆さん方が手よりも足よりも肉の中に神が住みたもう。神生きてるがゆえに私は生きてるのである。神働くがゆえに私は働くのである。常に言い聞かせて良きことをこの肉体に表現させようじゃないですか。悪い表現のために、この肉体が造られたのじゃない。あなた方の肉体の目的は人を罵り合う、貶し合うために造られたのでしょうか?

66:00

愛し合う、分かち合うための目的にのみこの肉体は造られています。どうか肉体の目的を見失わないように。肉体は内なる完全性を顕現せんがために神の顕現のために造られたものです。

あなたの肉欲・物欲のために満足感を与えるために造られたものではない。

完全に目的を見失った者のみが飲み食いをして肉の快楽・物欲に溺れてるのです。


内なるものを見れば、一切の肉欲・物欲を超越し克服したものとして内なるものを顕現していこうじゃないでしょうか。肉体の目的は偉大な内なる物の顕現のためにご自身が造りたもうものだからです。


どうか内なる物と外なる物の完全なる識別心と、それを愛和合させまして完全なる内なる物の表現媒体として皆さんがならんことをお願いします。外に生きないように、内に皆さんが自由に生きて頂かんことを…