20:10

内なる無限の全智全能の智恵・力・愛を顕現した時、人格神となる。

しかし人格神そのもので存在があるのじゃない。背後には唯一の神がなければ、人格神の存在はない。

だから人格神 一人だけが神じゃない。一切が神である。一人の人格神だけを拝んで礼拝してしまえば、その宗教はでたらめ。何も知らない。

21:00

イエスだけが神であると拝んでしまえば全体はどうなるか?そうなると盲信・狂信・偶像にすぎない。神はイエスだけじゃなく全体に現れてるから、イエス様だけが神様だ「あーイエス様」と言うのは盲信・狂信。釈迦だけが神じゃない。


確かに彼らは自分の中に神我を悟られて、神を現した方ではある。しかし現しただけで、彼だけが神の一人子でもなく神でもない。皆さん一人一人もそのように現せば、あなたにも現れるのじゃないか。

そうなると全体一切の中に神は住みたもう。ただその神我の自覚ができてなくて、内なるものを外に現すことができない状態にある。

22:00

イエスと皆さんとどう変わるか。イエスは特別な人間なのか?

彼はいち早くこれを悟っただけ。自分の中に神が生きて住みたもう働きたもうということを、私と父とは一体であるという自覚によって 内なる神を造られた物を通して顕現した。これだけの違いで何も特別ではない。釈迦も同じこと。

仏が自分の中におる。そして内なる仏、父なる神を自分という肉体を通して顕現された。それだけの違い。

23:00

皆さんの生命とイエスの生命とどう違うか。同一の生命、造り主。何も変わらない。特別扱いして神秘化してしまったがゆえ人間を盲目にしてしまった。


イエスが造り主か?イエスは全体神ではない。もちろん彼の内なるものは全体神、しかしその全体神は皆さんの中にもおる。特別のものは何もない。これを特別扱いしてしまった、世の盲目は。無知なるものが神を説くものだから、とうとう人に盲信狂信させてしまった。


イエス様が神の一人子だ、特別だ。もし神が特別を造るなら、神は完全ですか 愛ですか?特別なエコ贔屓をするようなら神は完全ですか 愛ですか?無慈悲でしょう。慈悲でも愛でもない。

24:00

こんな神を拝む必要はない。不平等を作る神を知る必要もない。エコ贔屓をするような娼婦のような神は一切不必要。

歌を歌えば幸せにする、そんなエコ贔屓をする神様を皆さん方は必要とするか。

神は無差別で平等。人間のエゴ・汚い心に差別はある。無知の中にある。皆さん方は差別されてますか?

同一の生命・神、全て皆さんの中に平等に与えられている。生かされて生きている。神は無差別の愛・無所得の愛。

そこには一切、差別はない。

25:05

この世に不平等が見受けられます。それは人間の物の間違った考え方、真の内なるものの平等性・無差別を知らぬ者の作り出したもの。

それは外の観念・感化で生きた物の捉え方がこの世に不平等を作ってるだけ。内を見れば無差別であり平等であります。


ある者は罪が多い、ある者は罪が少ない。これは神様が与えているか?

ある者は憎くて 多く罪を与えて、ある者には少し罪を与えてると思うか?

26:00

その罪と神とは関係ない。神を知らぬ者の間違った状態を罪と言う。本来の自分を知らぬ状態で勝手に人間の作り出した結果。結果人間が作り出した結果。

しかし原因においては無差別。実子に対しては無実であり無病であり不死。不死遠生。

皆さん方は死なない。神のみしかいない、あなたという存在さえない。あなたの物がありますか?一切は神の物。


26:00

あなたの所有物はどこにもありません。いくらあなたが金で買った物でさえもあなたの物じゃない。なぜならあなたの作った物はないからです。一切は神がお造りになって、一切は神が管理したもうからです。


一番大事なことは外は人間、内は神。

人間は神の中におり、神は人間の中におる。神、生きてるがゆえに私は生きてるのである。神のみが生きてる。

その真理を容易に 素直に自我で妨げないよう受け入れれば、今即あなた方は父なる全能の神と一体だと自覚ができる。


27:05

今まで考えていた自分というのがいかに愚かであるか。ただ人間という名前をつけただけ。人間は名前のつけ上手。

神のお造りになった物に人間が名前をつけただけ。花という名前をつけて、蘭の花と名前をつけた。この蘭の花は誰が作ったのか?人間か、神か。

神が造ったなら神のものでしょう。どのように造ったかと言うと、その中に住むことによって造られる。

私達も造ったなら、その造られた物の中に神がおらなければ私達は造られることは出来ない。

28:00

必ず造られた物の中には神ご自身をとどめたもう。住みたもう。

今、金魚がスイスイと動いてます。金魚は人間が作ったんだろうか。

あの金魚は神がお造りになって、神は自らの住み家を自らお造りになって 自らが住みたもうと書いてます。私達は生ける神の宮なり。人間とは生きた神の宮です。

私、知花の中に父ご自身が住みたもう。私と父とは一体。造り主と造られたものが分離して存在するのじゃない。

だから砂一つだって神には数えられてるのである。砂一粒も神がお造りになり神が住みたもう。

29:00

砂浜の砂さえも神には数えられてるのであると。雀一羽とて神のご意志なくしてこの地に落ちることはない。現れることはない。神のご意志で雀を創造なされ、その中にご自身が住みたもう。


じゃあ皆さん方は誰によって、この世に使わされたものなのか?神の御使なのか、誰の使いなのか。

神の意思によって皆さんはここに存在してるのか、誰の意思でしょう。神の意思です。なぜなら神の意思しかない。あなたの意思はない。肉我に人間の意思があるんじゃない。

30:00

これは勝手に人間が自分の意思と思い込んでるだけです。本来はそこには一つの唯一不二の意思、即ち神のご意志があるだけ。

生きてるのは一様しか生きてない。皆さん方は神のご意志によって神に使わされたるものである。

だからイエスは私は父なる神によって使わされたる者である。皆さん方はどうですか。神のご意志によって使わされたるものではないですか。

あなたの意思はないでしょう。造られたもの自らは無ですから、意思も智慧も力も息も言葉も持たないものですから、自ら無であるものに意思があるはずがない。

しかし造られた物が造り主を忘れて、

32:00

今、人間は造られたものであるにも関わらず、自ら無であるものにも関わらず、造り主に対抗してるようなもの。神への抵抗です。

自我とは即ち神への抵抗です。造られたものが造り主に反抗してる。今まで皆さんの日常生活はそうじゃなかったですか?神ご自身によって造られたものであるにも関わらず、造られたものだけで独自の生命・力・智慧があって、誰にも私は厄介になってないと考えてます。


そのような迷妄の生活をすると、この世に様々な不完全・不調和・様々な悪しきものを作り出した。これは全ての人間が造り主である神を忘れたから。神から分離したからです。

33:00

神から分離しなければ、あなたは不調和になることはなかったでしょう。

だからイエス様は私を受け入れる者はこの世で躓かないと言った。神我を受け入れたら躓きますか?

神我は智慧・力そのもの、愛・調和そのものだから躓かない。

躓いてるのはあなたが神から分離を引き起こした結果です。悲しみ苦しみは自分で勝手に生きて働いてるという無知の中にあります。

34:00

本物の自分は神そのものだから、悲しみ苦しみ、不安も恐怖も何もないはず。あるならば、まだ神我を受け入れてない。受け入れたら即平安・安らぎです。即天国であります。


神の国は汝の内にあり。もう探し回る必要はありません。皆さん方は今神の国におり、神の国は皆さんの中に現れてるからです。生命こそが神の国です。

35:00

今、物質主義・唯物論の中で生きています。これは死人です、生命的に。

死んだ者が何を考えようが不純だらけ、無純だらけ、不完全です。完全なる方から離れたからです。皆さん方は今即大調和じゃないですか。対立するものがない。

一切の中に同一の一柱の神が、あなたにも私にも皆さん一人一人を造ったのは同一の同じ神。根源は皆一つ。

36:00

本源においては皆一体。同一の生命・御霊・神が全てを造りたもうた。

今まで傷つけ合った、罵り合った者は誰を罵って嫌ってきたのか?神自身であると同時に自分自身です。

なぜそういうことが起こったか。それは結果だけに生きたからです。見える物が全てだと無知が引き起こすもの。

37:00

結果に生きた者に智恵ある者はいない。総理大臣だろうが大統領であろうが、結果に生きてる人間に智恵ある者がいますか?

どんなに地位名財を持っていても何もなし得ない。造られた物の中にある原因を忘れてしまえば彼は無知。それを知るまでは何回も生まれ変わる。

本来の自分を知れば罪・病・死も一挙に排除される。真の我は罪を犯さないから報いる罪もない。

38:00

そうすると因果の法則は消えたことになる。カルマの法則を克服した。しかし私達が結果に生きる限りはカルマの法則は免れない。どんどん罪を犯すんです。


カルマの法則は無知に属する者だけにあります。原因に生きれば、神我に生きればカルマの法則なんてない。カルマの大王があなた方の前におられるんですか?神とカルマの大王と関係ありますか。そんな大王はいません。

39:00

もちろん間違った法を犯せば、犯した分だけの法則はあります。罪を犯せば報いるという法則。これは宇宙法則・完全法則そのものであって何ものでもない。


皆さん方は解脱、全てのものから超越する方法を今日学んでいるのです。

どのようにすれば罪なき者として、病むことなく死ぬことなく生きられるか?

これは結果としての人間と、その内に住みたもう神とを直知すること 知ること。そして受け入れて内なるものを外に顕現せしめることです。神我顕現。