30:52

またもう一つお話しの中で面白いことがございました。先生が夢であのぐらいだから我々には到底という思いがあったら、また私達は信仰を失ってしまうんだなというお話しがあったんです。そう思ってはならない。


先生がそうだから私達はもうダメだというようなものがあれば、もうダメなんです。先生はできなくても私はできるんだという信仰がなければならない。

あの者はできなくても私はできるんだという強烈な信仰がなければならない。


また自分ができたからと言って自惚れるのもいけない。自分の力じゃなくて内なる力が働くからです。御業は内から来るからです。

私達自らは無なんだけれども内なる神の御業を見せられることによって行うことによって世の救済が行われるわけです。


31:50

あるいはこうも言われました。

「まだ求めてもないのに、もしあなたが人を癒す力ができて あなたは求めてもいない所に勝手に行って その人を癒してはならん。その人があなたを信じてあなたの元にいらして来た時に癒しなさい。」

「なぜなら彼もこの苦しみを通して成長しているものであるからです。人の自由意思を犯してはならぬ。勝手に自分から進んで、あなたの病気を治してあげましょうと言ってはならない。」


「求めて来るものを救いなさい。なぜなら求めてもいない者を癒したら彼は何をしでかすか分からない。新たな罪をまた犯させます。」

「だから勝手に直してあげようと増長満になって、あそこに走り ここに走りしてはならない。求める者、治して欲しいと思うのみを癒しなさい。」


32:54

それはちょうどイエス様でも皆さんビデオを見てご存知の通り6名並んでいました。ある一人だけが癒しを求めました。そして1人だけを癒して後は治さなかった。同じ道端に座ってるわけです。彼らは癒しを求めなかったからです。

そしてイエスは「あなたは私に何をして欲しいんですか?」と言われたわけです。

「私の目を見えるようにしてください。」と言った時、初めてその者は治されたわけです。しかし要求もしない者は座ってる者は癒さなかった。そのことをよく気をつけてください。


それは神の経綸ではありません。救われたくもないのに救うということはその人の自由意思を犯してることになります。一つの法の道を犯してることになります。自分が力がついたからと病人がいるから あそこを遠隔治療してあげようとか、あれを救ってあげようというのは神の経綸ではありません。その人が求めた時、やってください。


34:17

そして色々の病気の治療がありますけど、てんかんで倒れている者がいて弟子方に頼んだけど癒せなかった。

なぜ癒せなかったかというと病気を弟子方が見てしまって、完全性である彼の実相を信頼しきれなかった。

病気を見るのじゃなくて彼の内なる完全無欠の彼を見切れない限り 病気は治らない。完全に信じ切れた時、いかなる病気も治ります。エイズであろうが何であろうが。どんな病気も人間の心が作った影・幻ですから本物が現れれば、偽物は消える。


イエス様が耳を斬られた者でもパッと治しました。完全なる信仰を持ってるからです。イエス様に完全信仰がなければ完全なものは生み出せない。完全なる意識がなかったら完全に戻りようがないからです。引っ付きははするかな、治りはするかなと思ったら治りません。治るはずがありません。彼はもう恐怖してるからです。不完全を信じてます。そうすると治るはずがない。

36:00

病気治療なさった方々はご存知だと思います。治療しながら必ず治るという信念を持ってる時は治ってるはずです。

これは私にはちょっと無理だな ダメだなと片心でもあったら、あなたの信仰は浅きものです。神を信じてるのじゃなくて病気を信じてますから、病気の方に力を与えました。

あなた方は悪・病気というのは信じることで力を与えるんですよ。信じなければ病気に力を与えない。病気を信ずる者によって病気にエネルギー・力を与える。しかし病気を無視する者には病気は入り込む余地はない。


37:05

イエスの信仰が何であったかというと、彼の仮相・表現、病気を見たのじゃなくて彼の実相を見つめておられたのです。完全相を見つめたんです。

人間には誰にも完全なるものがあるわけです。実相・神我というものがあるわけです。

しかし神我という完全無欠の自分は信じないで、ほとんどの人が神我を曇らせてるんです。それは外なる諸々の不完全を信仰することによって、心の迷いが現した色々の病気や不幸災難を信ずることによって、我々の実相である完全無欠を曇らせてる。だから私達は完全無欠なる自分自身以外を見聞きしてはならない。


38:04

汝の見るもの全てを受け継がん。

悪を見れば悪を受け継ぎ、病人を見れば病人を受け継ぐ。あなたの見るもの信ずるもの全てを受け継ぐわけです。

あなたの意思なくしてあなたの中に入って来たものは一つもありません。あなたの許可なしには何も入れない。


だから悪霊を信ずる者は悪霊を我が身に受けます。私がいつも口癖のように言ってるのは外人は悪霊の祟りを受けない。彼らは悪霊を信じないから受け入れないからね。だから外人さんには水子の祟りもご先祖の祟りも自縛霊もないんです。陽気です。


沖縄人はユタに暗示をかけられて信じ込むものは全部 我が身に受けるわけです。作り出すわけです。信ずる者が悪霊に力を与えてます。呼び入れるわけです。


39:00

人間はいかに無知であるかということです。いいものを受け入れればいいのに、なぜ悪いものを引き受けているんですか?病気や事故災難を引き受けたり。


神は完全ですから、神を信ずるとは完全以外 何も信じないということですよ。

その時、あなた方は本物の信仰になってます。

しかし皆さん方が完全も信じて 不完全も信ずるというなら、あなたは二つ目です。善悪の実を食べてます。私を信じてるのではありません。

口先だけでは神を信じてると言いながら、精心では事故災難や病を信じてる人がいます。これは私を信仰してるのでもなく私を受け入れてるのでもない。

40:02

あなた方が私を受け入れるということは完全そのものでなくてはならない。

自分は完全そのものだ、神そのものだという信念でのみあなたは私を受け入れることができる。


私も受け入れて、この世の迷い人が作った肉の心が作った不完全を受け入れるならあなたは善悪の知恵の実を食べてる。迷いも信じて 悟りも信じるという二面相ですね。だから真に私という神を信じてる者は世の中に数少ないのです。

私を受け入れるという意味合いは、世の諸々の人間の勝手に作った心の 肉の感化が作ったものを信じない、受け入れない。そして私という神我のみを受け入れる。

41:00

完全以外、何もない。病気なんかない、事故災難もない。災いなんかない、死もない、罪もないと言い切れた時、あなたは私を受け入れたことになる。

しかし、この世の病気も災いも死も罪も受け入れながら私を受け入れてません。私は完全であるからです。

私を受け入れるとは完全以外にあなたの心に 意識にあってはならない。

完全意識のことを私と言ってるのです。私というキリスト意識は完全意識です。


キリストがわたしの中におると言うなら完全以外何も思ってはならない。病気も事故災難も信じてもならない。死・悪・悪霊の祟りを信じてはならない。

これは迷い人の心が作った地獄にしかすぎない。あなたの意識が勝手に内なる力を悪用して使って 我が身に災難を招いてるようなもの。


あなたの意識するものは全て我が身に受け付けるということです。悪・病を信ずれば、悪・病を受け入れる。様々なものを私という意識の力を悪用している。

私が力を与えたのはいいことをなすために与えたんだけども、世の無知は様々な悪しきものを自分自身に引き受けるようになった。

42:52

それから解放されるためには、この世の不完全・迷いはみんな人間の心が作り出したもの。これを否定して無視すること。そうしない限り完全なる私があなたの中に根付くことはありません。


現実に今あるわけです、私はそこにおります。キリスト意識という完全のみを意識する私がいるわけです。

それを神意識・神性意識・内在意識と呼んでみたり、あるいは内在神と呼んでるようなもの。意識そのものが神そのものだからです。 

43:33

あなたの意識は私なんです。あなた方は私の力を通して様々なものを作り出したんです、不幸災難を。

しかし完全無欠の実相を悟られまして、私以外に不完全な迷い人の影響受けないようになった時、その者は 私は安泰となります。


私は飛行機に乗ろうが船に乗ろうが どこに行こうが安全なんです。私のいる所、常に安全です。なぜなら事故を信じない、完全しか信じてませんから 私は災難が会いようがない。完全のみしか信仰してませんから。

44:20

私はどこにいても安泰なんです。平安なんです。

不安というのは何から来ますか?迷いから来ます。色々の事故災難・病気を信ずることによって不安じゃないですか。


平安あれと言うのは、私あれという意味なんです。私があれば 完全なる信仰を持っておれば どなたでも平安であるはず。

平安というのは色々の病・病気・事故災難・死も信じない、この世の不完全なもの全て拒否したら あなたは平安になるのじゃないですか。

諸々の迷ってる不完全を信じることで、皆さんは不安がってる 恐怖してるわけです。

45:13

例えば12の弟子がイエス様と一緒に舟を出された。その時に途中で嵐に遭われた。

イエスを起こして「先生、大変なことだ!嵐が出てます。舟がもうやがて沈みそうです。」と言うわけです。

『あなた方の信仰はどこに行った。』と言われた。

『あなたは何を信じてるの?不幸災難を信じてるのか、安泰である安全を信じてるのか。完全を信じてるのか。』


あなた方の信仰の強さというのは不完全を信ずることじゃなくて、完全を信ずることであります。

皆さん方、今ここで話を聞きながらでも これは難しいなと思ってらっしゃるでしょう。そういう人はそれなりの現れ方しかできません。