街道の道標 大峰山編⑸ | としのブログ

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大峰山の道標を探しのきっかけの場所


前編は南河内の羽曳野だったが、今編は北河内(もう聞かないね)に戻りますが、大阪府から北河内郡が無くなったのは1971年(昭和46年)と比較的新しい、今回紹介する交野市が交野町から市になった時で、吹田であった大阪万博の時は、北河内郡交野町であった。
 以前、バイクのクラブを持っていて、そのクラブの女の子二人の会話「交野と羽曳野ではどちらが田舎やろう」と交野の娘、「そら交野やで、羽曳野が市に成ったのは昭和34年や、あんたらは46年や、一回りも新しいやろ、だから最近まで田舎やったんや」と羽曳野の娘ひらめき うーん口出さんとこ口笛 ちなみに羽曳野市の市になる前は(南大阪町)です

脱線ガードを働かせます。
次の地図を見て下さい


これは大正末期の交野市の地図です、東高野街道と山根街道の交差点(A)に道標があります、またご覧の通り磐船街道もすぐ横を抜けています、この地図では場所がわかりにくいので現在の地図をのせます


現在の地図では埋もれてしまいそうですね


Aの場所です、石碑が三つ建っています、左手が東高野街道、右手が山根街道です、ここは「上ノ山の辻」と呼ばれていて少し高台になっていて、昔から交通の要所でした




南から見て、手前に小さな石碑が北側に大きな石碑が建ちます、そして大きな方には「大峰山 右 宇治、左 京八幡 道」とあります、また、手前の方には、「右 山根街道私部 左 すぐ東高野道京道」とあります、何より大峰山の文字が一番大きいのに感激


小さな石碑の裏は、すぐ東高野道星田停車場です、JR学研都市線の星田駅ですね、その星田駅が出来たのは1898年(明治31年)、石碑はそれ以降に建てられたのだろうか、もっと古いイメージだが


大きな石碑にこの面は、「すぐ髙野大坂道」ですね


そしてもう一つの石碑は、石地蔵で右の部分が欠けていますが、私部村の部分が欠けていますが地蔵講中とあり、享保十乙巳年三月二十四年とあります、1725年のことですね


私が大峰山の道標を探すきっかけはこの場所からです。


やはり歴史街道には多くの道標がありますね、


ところで、山根街道は複数のルートがあるようなので、また調べて見ます


そんな交野の道標でした