家康に関わる遺構⑴ | としのブログ

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本能寺の変と家康



まもなく6月である、6月は歴史的に大きく動いた過去がある、それは今から440年以上前の西暦1582年6月21日(旧暦では6月2日)に、織田信長が家来の明智光秀に、京都の本能寺で襲われて自害した事件がある、今回はその信長の事でなく、信長と友好関係であった徳川家康がその時にとった行動、つまり(家康の伊賀越え)についてである


何故私が、歴史好きなら知っているこの事に触れるかと言うと、前編で訪ねた星田の妙見さんの前の薮の中に「家康ひそみの薮」と言うのがあったので家康の伊賀越えについて調べたくなったからである


信長が襲われた時、家康は信長の誘いで堺にいた、これはどんな文献を見ても間違い無いようだが、しかし信長の死を知らされたのは堺ではなく、堺から京都に招待のお礼に向かう途中であったのが正しいと思われる、その知らせを聞いた場所は飯盛山の麓の説が多く四條畷神社と書かれた文献があるがこれは間違いと思われる、四條畷神社の創建は1890年(明治23年)で、ありえないのある、ではその場所は、四條畷神社の北側にある住吉平田神社と思われるのでその住吉平田神社に行って見た


住吉平田神社

堺を出発した家康一行40名足らずは、私の予測では堺から柏原に移動し、旧大和川(大和川の付け替えは100年後)を船で北上し、深野池で上陸したと考えると、丁度飯盛山の麓のこの神社が可能性が高いのである





ご覧のとおり、四條畷神社に寄り添うように住吉平田神社はあります



A 住吉平田神社の一の鳥居です


先が見えない階段があります


ここからの景色も悪くは有りません


まだまだ気合いを入れて登ります、ここに以前は鳥居があったようだ


段々高く景色も遠くまで見渡せます


約120段登りましたが、まだこんな感じです


結局200段強ありました


手水舎です、お茶のペットボトルはこの階段をなん往復されている方が居られたので、その方の休憩用のようです


文字が掠れて読めませんが、本殿の建て替えの記念と思われます


暴走族や不良に向けたメッセージ、200段の階段を登ってこのメッセージを読みに来る不良はいるのだろうか


拝殿までは、まだ登ります


B 朱塗りが真新しい拝殿です


しっかり手を合わせて来ました


拝殿の裏には本殿があります



八坂神社


拝殿から右手に道が続いています、行って見ます


稲荷神社があります


稲荷神社から降る階段を降って行きます


なんと、四條畷神社の本殿の裏に出ました


四條畷神社の参道の石碑


残念ながら、家康の事の記述は有りませんでしたが、当時のロマンに触れた住吉平田神社でした