昨日は母の日。
今年の1月19日、僕の母親は亡くなりました。
もう少しで77歳でした。
今まで、出演しているラジオ番組で、家族のことをネタにすることが多かった僕ですが、母親の病の事、亡くなった事は、触れる気にならず、ましてやSNSに書く気にもなりませんでしたが昨夜からは実家にいて、母親に線香をあげる事も出来たので、母親についてここに刻みたいと思いました。
僕は、母親の寵愛を受けて育ちました。
今、思えば、僕の今の感性の基礎を作ってくれたのは、母親だったと思います。
我が家は、経済的にけっして潤沢ではなかったはずだったのに、僕は貧しい思いをした事がありませんでした。
僕にだけは、やりたい事は全てさせてもらっていました。
甘えさせるだけ、甘えさせてもらっていました。
だから、こんな大人になってしまったけれども、嘆かわしい事ばかりではなく、今の僕の創作活動は、甘えて、甘えて、甘え続けてきた人間だけが持つ、オメデタイ感性、人間を全面的に肯定する感性が育まれたと思います。
本を読むことが好きだった母は、幼い頃から僕には、いろいろと読む機会を作ってくれました。
子どもの頃、読んだ絵本の一つ「泣いた赤おに」は、今は劇団で一番長く上演している作品になってます。
18歳で役者になると言って家を出た僕でしたが、21歳ぐらいまでは、母親の小遣いの中から仕送りをもらってました。
その修行時代に僕の風呂なし、トイレ共同のアパートに、掃除に来てくれていた母親は、冷蔵庫の扉を開けて、肩を震わせていました。最初は、笑っているから肩かが震えていたのだと思っていました。
実は泣いていました。
我が子の暮らしぶりを悲しむ母親の背中でした。
母親が扉を開けた冷蔵庫の中には、パンの耳がビニール袋に入っていただけでした。

芝居は、ほとんど観てくれてました。
そして、作品についての感想は、そんなに言わず、ただ「頑張れ、頑張れ」と言ってくれてました。
22歳で、テレビのレポーターをはじめたときや、24歳でラジオにはじめてついた時、とても喜んでいたようです。僕には、それを感じさせないようにしてましたが、亡くなった後、僕が出演する番組や芝居の資料や新聞記事の切り抜きが沢山出てきました。
一人芝居をはじめたときや、今の劇団を旗揚げした時は、わざわざ北九州の若松から、博多まで電車に乗って公演の受付をしに着物を着て一人で来てくれてました。
ここには、書ききれない母親から受けた愛情
に対して僕は、当たり前のようにしていました。
感謝の言葉をかけるわけでもなく、むしろ、母親も息子の世話が出来て喜んでいるだろうくらいの認識しかなかったと思います。
ただ、一度だけ気まぐれに、母の日か誕生日に送ったブラウスを母親は、何かある時には大切に、着てくれていました。
とても大切に着てくれてました。

大腸癌を最初に患ってから2年半の闘病生活は、親父と母親の少し長めのデートだったように今では感じています。
孫が生まれという理由で、仕事を引退した父親でしたが、その孫よりも、最後は優先順位は、母親のことでした。
父親の1日の全ての仕事は、母親の為でした。

母親が逝く時は、父親と叔母と僕の三人が実家にいました。
そう、母親の最期は家で看取ることが出来ました。
とても恵まれていたと思います。
亡くなった時、父親はまるでドラマのように
母親の遺体に向かって
「お前、俺をひとりぼっちにするんかー!お前、俺をひとりぼっちにするんかー!」
と泣きながら叫びました。
そのあと、父親は何故か意味なく普段はあまり上がる事のない二階に暫く居たかと思うと何故か洗濯機をまわしました。
叔母は、ずっと母親の亡骸の横で静かに泣いていました。僕は、居間でボーとしていたと思います。
三人が別々の部屋で母親の死を、本当にやって来た死を悲しんでいました。
それは、三者三様の母親との距離の違いを表しているようでした。夫、姉、息子、それぞれの母親への想いの違いのようでした。

母親が逝く前に、本当に息も絶え絶えに僕に残してくれた言葉は、
「よう、頑張ったね。」
「仲ようせなよ」
「お父さんを頼むね」
という、三つの言葉でした。
「よう、頑張ったね。」は、きっとパンの耳にしか入っていない冷蔵庫の生活から、芝居を創り、ラジオで喋る事を生業にし、人並みの生活をやれている今の僕を喜んでの言葉だったと思います。
「仲ようせなよ」は、いつも言われていた「二人っきりの兄弟だから」弟と仲良くして欲しいという事、また妻や、友人との関係だの事だと思います。決して今、仲が悪いわけではありませんが、いつも母親は、「たった二人の兄弟だから」
と言ってました。

そして、「お父さんを頼むね」
そう、母親は最期まで、しっかり父親を愛していました。

死後、本当の母親からの父親へのラブレター、病が進行する中で書かれた手紙が出てきました。
とてもピュアに父親との思い出が書かれていました。
書き出しは、「一徳さんへ」から始まってました。「お父さんへ」ではなく.ちゃんと男性として「一徳さんへ」でした。

昨日の母の日。
初めての母親が、この世にいない母の日。
僕は、仏壇に手を合わせながら、母親、「秀子」の息子に生まれた事に感謝し、これからの人生を必死に生きぬく覚悟が僕の中に生まれました。

お母さん、ありがとう。