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『自然がせつないのは、自然と向かいあったときに自分がたった一人だって、実感しちゃうからなのかもしれない。 もしかして、この景色を誰かと見たとしても、その人が私と同じようにこの緑を見るかどうかわからない。世界は私という認識の中に成立してるんだ。』』田口ランディ箸「ひかりのあめふるしま屋久島」の一節を読んだとき僕は、そういう事か!と自分の膝を叩いた。もちろん現実に膝を叩いたわけではなく焼酎でぐにゃぐにゃになっていた頭の中が明晰になった。そして今、屋久島に行きたい意味と27年前に佐多岬で感じた自分の感情をやっと了解できた。中学を卒業した僕は高校に入学するまでの春休みに一番仲がいいと思っていた友達と九州一周の旅にでた。旅の中盤で僕たちは九州最南端「佐多岬」に行った。そこから見た水平線を前に僕はそれまで出会ったことのない感情になった。それは「悲観的でない無力感」「死んでも怖くない的な感動」であった。つまりめちゃくちゃに感動していた。
ただ何故か、そこからの旅は余り友達と行動しなくなっていた。むしろユースホステルであった大学生としゃべったり大学に受かって上京している大学生に列車の中で弁当をおごってもらったりしたほうが楽しかった。そして最後には二人は完全に別行動をとっていた。

多分、あの時の僕は今まで見たこともない大きな海を前にして自分の中の認識、つまり「この自然に全く影響力をもつことのできない無力感」を味わい友人と一緒、誰かと一緒という安心感の中でしか旅していない自分が格好悪く感じたんだと思う。今思うと一緒にいた友人には悪いことをした。
ごめんなさい。
ここでいくら謝っても、読むことは多分ないと思うけどごめんなさい。

そこで今回の旅だけど、多分・・・・・仕事やプライベートでの運命共同隊的な幻想で自分を、そして周りを縛りつけていた呪縛からの開放・・・・・・等と難しい事を言いたくなる自分を笑う為に行くのだと思う(笑)。

ガイド本やランディさんの本で少し情報過多になっている僕が実際に屋久島で何を感じるか自分でも楽しみだ。

今日、予約していたチケットを取りに行った。