灰谷健次郎さん(72歳)が11月23日に亡くなった記事を見て、『兎の眼』(理論社)を30数年ぶりに読んだ。読みながら、ジンと熱いものが何度もこみ上げてきた。昔々の小学生の頃、『二十四の瞳』という映画を見て泣いたのを、友達に見られるたが恥ずかしかったこと等を、想い出したのはなぜなんだろう。

「おおかたのセンコは わいらを ばかにしとんじゃ。わいらのことを くさいいうたり あほんだれいうたり、だいたい人間あつかいしてえへんのじゃ」
固く心を閉ざし会話も出来ない鉄三と新米担任の小谷先生、塵芥処理所に住んでいる子どもたちと心を通わせる教員ヤクザの足立先生。

知恵遅れの子どもの教育について職員会議で意見を述べる足立先生。「小谷先生はきのうから こちら泣いてばかりいる。なにを泣くことがあるんですか。・・略・・ちえおくれの人たちのことを 障害者とわれわれは呼ぶが、心に悩みを持っているのが人間であるとすれば、われわれとてまた同じ障害者です。・・略・・ちえおくれといわれ、問題児とかげ口をたたかれた子どもを、小谷学級の子どもたちはあたたかく受けとめ 先生も含めてみんなが泥だらけになって生きてきた、」
今、職員会議で自分の意見を述べることが出来るのだろうか、管理が厳しくなって先生方もひっそりと息を潜めているのでは、と心配に思う。

障害者を受け容れた小谷先生を指弾してきた母親の一人は、「一部の子どものために みんながめいわくをこうむる。わたしたちははじめは そう考えていたのです。しかし、それはまちがいでした。よわいもの、力のないものを疎外したら、疎外したものが人間としてだめになる。処理所の方たちの要求は私たちの要求として、処理所の子どもたちのたたかいは、わたしたちのたたかいとして考えていかなくてはいけないと思います」。
障害を持った子どもと席を同じくする中で、この発言をした母親の子は優しい心を育んでいく。我が子の変わり様を見て親もまた変わっていったのです。

経済成長・豊かさという名の下でいじめ、自殺、子殺し、親殺し等々、人としての思いやり、優しさがどこかに忘れ去られてしまったような、不幸な時代に生きている私たち。悲劇のしわ寄せは子どもだけでなく、弱い立場のもの全てにのしかかっている。教育的配慮とか言いながら何もしないで手を拱いている教育委員会や教師達、その後ろにいる大勢の人任せ自分だけのことしか考えない大人達に、灰谷さんが元気だったら何と言ったであろうか。 ご冥福をお祈りいたします。 合掌
固く心を閉ざし会話も出来ない鉄三と新米担任の小谷先生、塵芥処理所に住んでいる子どもたちと心を通わせる教員ヤクザの足立先生。

知恵遅れの子どもの教育について職員会議で意見を述べる足立先生。「小谷先生はきのうから こちら泣いてばかりいる。なにを泣くことがあるんですか。・・略・・ちえおくれの人たちのことを 障害者とわれわれは呼ぶが、心に悩みを持っているのが人間であるとすれば、われわれとてまた同じ障害者です。・・略・・ちえおくれといわれ、問題児とかげ口をたたかれた子どもを、小谷学級の子どもたちはあたたかく受けとめ 先生も含めてみんなが泥だらけになって生きてきた、」
今、職員会議で自分の意見を述べることが出来るのだろうか、管理が厳しくなって先生方もひっそりと息を潜めているのでは、と心配に思う。

障害者を受け容れた小谷先生を指弾してきた母親の一人は、「一部の子どものために みんながめいわくをこうむる。わたしたちははじめは そう考えていたのです。しかし、それはまちがいでした。よわいもの、力のないものを疎外したら、疎外したものが人間としてだめになる。処理所の方たちの要求は私たちの要求として、処理所の子どもたちのたたかいは、わたしたちのたたかいとして考えていかなくてはいけないと思います」。
障害を持った子どもと席を同じくする中で、この発言をした母親の子は優しい心を育んでいく。我が子の変わり様を見て親もまた変わっていったのです。

経済成長・豊かさという名の下でいじめ、自殺、子殺し、親殺し等々、人としての思いやり、優しさがどこかに忘れ去られてしまったような、不幸な時代に生きている私たち。悲劇のしわ寄せは子どもだけでなく、弱い立場のもの全てにのしかかっている。教育的配慮とか言いながら何もしないで手を拱いている教育委員会や教師達、その後ろにいる大勢の人任せ自分だけのことしか考えない大人達に、灰谷さんが元気だったら何と言ったであろうか。 ご冥福をお祈りいたします。 合掌
* 長谷川知子さんの「さしえ」を同書から複写させて頂きました。