
例幣使街道は、江戸時代以前の街道だけあって、、、
旧中山道のような形での「明確な本陣」などの史跡は少なかった。
だが、、、

例幣使街道を歩いていて、何も無いなぁ~ って、歩いていたら、、、
とある史跡に出くわし、なるほど〜
って、感じてしまいました。

そこは、単純に見れば、ちょっとした小高い丘。
でも、そこに丘が作られた理由が、「東山道」であったからだろうと、大いに感じてしまいました。



不動山古墳
説明板を読んだところ、なんと、「前方後円墳」だったそうだ。
それも、6世紀から7世紀のあたりに、作られたと見られているそうです。
この古墳があると言う事は、ここに何か、奈良 朝廷から「派遣された関東、東北各地の国司」が、奈良に帰る際に、命が尽き、、、
当然、国司と言えども、奈良時代、平安時代の交通状況では、奈良に遺体を返すことも出来ずに、ここに葬られたんだろうなぁ~
って、感じながら、眺めてしまいました。
今でこそ、車や電車などで、「遺体」を自分の望む場所に葬ることが出来るのだが、、、
馬しかない時代に、それも、「道」さえも完全に整っていなかったことを思うと、朝廷から、各地に任じられた「国司」の人々が、帰京の際や、派遣された地での「死」への弔いは、「その地」でしか出来なかったんだろうなぁ~
って、感じてしまいました。
現在は、交通の発達で、「死」を、どこででも、迎えられるが、、、
かつての「馬」だけの時代だと、そうはいかなかったのだろうね。
そして、現在も、「街道筋」の「宿場町」の果てには、「お寺」が多いのも、そんな事情から来ているんだと思う。
それは、例えば、、、「東海道」の「高輪大木戸」の「手前」に、「増上寺」「泉岳寺」があったり、中山道 巣鴨大木戸の手前の「本郷」には、蓮光寺などの寺社街が広がっている。
東京都内も「府中」や「国分寺」などの「武蔵国府」があった地域には、「古墳」が多数発掘されていて、京都に戻れなかった「国司」たちが祭られております。
「古墳」と言われると、「天皇」を思い出す方が多いと、思いますが、、、
当時、「天皇」は、奈良、京都から離れられなかったはずなので、地方の古墳は、「国司」だと思いました。
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