
♪ 我が祖国は、時の彼方 ♪


下野国府跡の何もない台地を眺めて、中島みゆき「我が祖国は時の彼方」なんて、歌を歌ってしまいました。。。



下野国庁跡(下野国庁跡資料館)と言う「博物館」に出会いまして、ここで、様々な事を、博物館の齢の行った方にお伺いさせて頂いてしまいました。
「下野国庁跡資料館」
https://www.tochigi-kankou.or.jp/spot/shimotsuke-kokuchouato

私が事前に、ネット上で調べておいた「東山道」の話をしてみたら、その案内の方は、驚きながら、私に様々な「江戸時代以前」の「下野国」のことを語って頂きました。
まず、平安時代は、現在の「東海道」のような「海に近い道」よりも、「川」が渡りやすかった「東山道」の方が発展していたと言うお話、
そして、「下野国府」が、ここであるかどうか、昭和の遺跡発掘調査まで、疑われていたお話。
何よりも、「江戸時代以降」、この下野府中が、衰退してしまった話、、、
江戸時代以前は、「川を渡る舟技術」が確立していなかったので、得てして、「国府」は、川から離れた、あるいは、中流域で人が川を歩いて渡れた地域が選ばれたそうだ、、、
そして、その意味で、この何もない「栃木市」の大草原の中で、「国府」が築かれたそうだ。
しかし、、、江戸時代以降、舟運の発展などに伴って、「街道」が、「海」寄りの「日光街道」と、「中山道」になってしまい、、、
国府であった「栃木国府」が、大々的に衰退していってしまったそうだ。
その後、近世にかけて、「下野国府」がどこであったかと言う議論は常にあったそうなのだが、、、
最終的に、「栃木市」の「国府」で、「京都からの伝書」などが、たくさん、見つかり、ここが、「下野国府」であったと、確立したそうだ。
私は、「国府」参りの中で、「相模国府」(神奈川県)を調べた際に、大いに迷わされたのを覚えていたので、博物館の案内の方に、何度も、「本当ですか?」って、聞いてしまいました、、、(*'▽')
そして、江戸時代以降は、「中山道」も、「日光街道」も、走らない「浮いた地」になってしまい、廃藩置県の際に「栃木県」と「宇都宮県」が、旧下野国を「一つの県」とする際に、「日光街道」沿いの発展していた「宇都宮」に、「県庁所在地」を譲るも、「県名」だけは、
「栃木県」
として、譲っていただき、何とか、事なきを得たそうだ、、、
ただまぁ、日本全国で、平安時代の「国府」位置が、はっきりしているのは、下野国以外でも、かなり、少ないと言う話を、今回、お話をさせて頂き、知ることが出来ました。
私も、「相模国府」で、かなり、迷子にさせられたので、このお話は、分かりました。
今も、中仙道も日光街道も走らないで、「県庁所在地」でもない「栃木」が「県名」を名乗っていることに、不思議さを感じていましたが、今回の国府跡を眺めて、初めて知ることが出来ました!
今まで撮ってきた写真を「PhotoLibrary」にも掲載しています。良かったら、見に来てください!!
(サイズの大きい写真も掲載しています。必要であれば、PhotoLibraryにてダウンロードしてください。)
https://www.photolibrary.jp/profile/artist_13428_1.html