橋を渡りて、「三井越後屋」へ達す。 | 風来坊家「とし」の写真集ー「一日一写」

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銀座から、京橋、日本橋を渡りて、ライオンに会いに、三井越後屋本店へ

まぁ、銀座にも居るんだけどね~












銀座と比べて、格式の違いと言うモノを、圧倒させられました~

でも、ここが、日本三大財閥の一つ、「三井家」由来の地であることは、三越日本橋本店隣の建物で知る。




三井信託銀行 本店

まぁ、江戸の昔から、「現銀安売無掛値」の金融業もやっていますからね~

デパート「三越」がお好きな方は、ぜひとも、日本橋 越後屋へお越しくださいね~





豪商三井家の家祖高利(たかとし)が1673年(延宝1)江戸日本橋本町一丁目(東京都中央区)に開いた呉服店。現在の三越百貨店の前身。

高利の母殊法(しゅうほう)が伊勢(いせ)松坂(三重県松阪市)に質屋・酒屋を営み、祖父高安(たかやす)が越後守(えちごのかみ)と称したので、「越後殿の酒屋」とよばれたことにちなみ、江戸の呉服屋を「越後屋」と名づけた。

最初、店の規模は間口9尺奥行11間。長男高平(たかひら)と次男高富(たかとみ)が店務にあたり、店員は手代・子供・下男あわせて10人足らずであった。

1683年(天和3)駿河(するが)町(現三井本館の所在地)に移り、それまで武家屋敷相手の掛売りが主だったのを「現銀安売無掛値(かけねなし)」という新しい商法で、町人・庶民目当てに切り替えてから大いに繁栄、江戸時代最大の呉服商となった。
その繁盛ぶりは多くの錦絵、西鶴(さいかく)の『日本永代蔵(えいたいぐら)』にも描かれた。京都に仕入店(しいれだな)を置き(高利と高平があたる)、江戸には本店(ほんだな)(呉服店)のほか綿店(わただな)(のち向店(むこうだな)と改称、現三越の所在地)、芝口(しばぐち)店を設け、1691年(元禄4)には大坂にも支店を開き、生産地には広く集荷網を張って全国的な商業を営んだ。

他方、幕府払方御納戸(おなんど)呉服御用達(ごようたし)を勤め、両替店をも兼営、1691年大坂御金蔵銀御為替(おかねぐらぎんおかわせ)御用達の地位を得て、最大の御用商人となり、呉服店も繁盛した。1713年(正徳3)の本店(呉服店)店員数は、京都手代44、子供51、下男9の計104、江戸手代106、子供44、下男35の計185、大坂手代34、子供22、下男5の計61合計350人に達した。幕末・明治維新期は呉服業が不振に陥り、時の大蔵大輔・井上馨、参議・大隈重信、大蔵大丞・渋沢栄一らの勧告もあって、三井家事業の中心を金融に置くことになったので、1872年(明治5)、越後屋は三井大元方(家政・営業の統轄機関)を離れて連家(5軒)の経営に移され、商標をと定めた。

1893年商法施行に際し、合名会社三井呉服店と改称、さらに1904年(明治37)三井家から離れて株式会社三越呉服店を設立。
1928年(昭和3)株式会社三越と改めて現在に至る。
(コトバンク 越後屋とは)
https://kotobank.jp/word/%E8%B6%8A%E5%BE%8C%E5%B1%8B-36710



先週土曜日の東京さんぽが、まだまだ、終わっていないので、、、
申し訳ないのですが、少々、更新回数を増やします。




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