【相撲協会と吉〇司家と阿〇宗とヤ〇ザ】へびりん取材記 | 僕のお相撲日記season8¨刺してやろうか 主役は俺だ¨

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ひとりひとりの協力で無くそう事故と日本相撲協会

吉田司家は、現在まで800年以上の歴史を持つ、相撲の司家、家元です。「相撲道」と言いますよね?お相撲は「稽古で身に付けた技芸を、お客様からお金を貰ってお見せする」という根本があります。「稽古」と言うくらいですから「芸」なんです。その頂点「横綱」のお免状を出してます、という家元です。イメージ的には「茶道」「日本舞踊」「書道」などに近いでしょう。 

ではこの司家の始まりまりは?と言いますと、朝廷の三度節の一角をしめるのが「相撲節会」です。この節会において相撲式を指導し、行司の始祖とされる人物が志賀清林である。志賀家は彼の死後も代々行司の家を勤めていた。その後節会相撲の中断とともにその家も断絶した。志賀家が途絶えた後、同家に受け継がれてきた故実や伝書は、吉田家初代吉田豊後守家次に受け継がれました。

 

相撲節会は、平安中期以降「相撲召合」と呼ばれ規模が縮小され、保元3年(1158年)と承安4年(1174年)を最後に廃絶しましたが、吉田家は文治2年(1188年)6月、吉田家始祖吉田豊後守家次が朝廷相撲節会復興に際して、後鳥羽天皇に召され、相撲の行事官を命ぜられ「獅子王団扇」「木剣」を賜り、その名「追風」を賜ったことからその歴史が始まります。 それから数百年、相撲協会が「相撲会所」に時代から、協会になっても「横綱免許」を出していました。 吉田司家は熊本県に居を構えておりました。横綱免許は「五条家」も出していたという事実もありますが、五条家の免許だけでは「格落ち」なんです。やはり司家が出さないと「本物」ではないというのが当時からの風潮だったのです。 新横綱が誕生すると藤崎八旛宮の参道沿いにあった吉田司家で免許状の授与が行われていた。

 

吉田司家はもともと越前国の武家。後鳥羽天皇(平安末期-鎌倉初期)の時代、初代の吉田家次が節会相撲の行司官に任ぜられ、以後、相撲の宗家として代々「追風」の号を名乗ります。肥後細川3代の細川綱利公の時、招かれて熊本藩に仕えました。寛政元年(1789)19代吉田追風が「横綱」を考案し、谷風梶之助と小野川喜三郎に横綱を免許しました。これが、現在に至る横綱制度の始まりです。この免許を与えるに当たって、熊本城内で審議会が行われ、肥後熊本藩8代藩主細川斉茲公が事実上の審議委員長を務めたと伝えられます。以来、第40代横綱の東富士欽壹が昇進した昭和24年(1949)まで、代々の横綱に吉田司家が免許を与えました。横綱への免許授与は第4代横綱の谷風梶之助から第40代東富士欽壱までの160年間、37人にのぼります。 

熊本市内の光琳寺通りから下通りを横切って東の方に進む界隈は、かつて「相撲町」と呼ばれていました。細川綱利公は越前より招いた吉田司家の屋敷をここに構えさせました。以降、この界隈に力士など相撲関係者が多く住むようになったことによりこの名がつきました。 しかし、1980年代、吉田司家の24世吉田長善氏が司家のお金を横領して「野球賭博」をして相撲の名家の相撲関係のものを全てが借金の形になり喪失させてしまいました。その額は60億と言われております。当時、刑事事件にもなったんですよ。そこで相撲協会は「こんな危ないのとは付き合いきれない」となり、疎遠になり、司家も「横綱免許」は協会に一任、そこで「横綱審議委員会」なるものが出来たんです。双羽黒以降横綱の推挙上は日本相撲協会が発行しています。現在は影響力はございません。司家内部の不祥事によって、アマおよび大相撲における相撲全般の影響力を放棄し、大相撲は相撲協会に、アマは相撲連盟に一切を譲渡しています。取り決めでは当分の間とされていますが無期限の為、いつ復活するかの見通しはたっておりません。司家サイドとしては復活を目指している様ですが。 司家と離れた影響を強いて申せば、九州場所開催前に司家への奉納土俵入りが無くなったのと、木村庄之助に松翁の称号授与がされない事でしょう。

定年制以降在位期間が最も長く、また立行司として差し違いが無かった、二十七代に称号が無かったのは、司家と関係を絶った影響からと言う事だと考えられています。 

 

そこで許〇中なる人物が暗躍します。「イトマン事件」で有名な人ですね。私が以前、動画配信で「日大田中理事長と許永中と大阪国技館構想」という配信を流したのを覚えてますか?ここで阿含宗という新興宗教との「相撲利権」が出て参ります。その様子と経過を追ってみましたので確認してみてください。

ここで「阿含宗管長、桐山靖雄」「山段芳春」という人物も暗躍していたということを確認しておいてください。 

1 許〇中氏と桐山館長が会ったのは、平成7年で、フィクサーの山段芳春氏の仲介である。 

2 桐山は、許〇中に「星まつりにもっと人を集めたい」と頼まれた。そこで、吉田司家の宝物を収蔵する博物館を作り、阿含宗が運営し、星まつりで、吉田司家主催の横綱の土俵入りをしたら、人が集まると言うことになり、両者は吉田司家の博物館を阿含宗で作ることにした。 

3 阿含宗は、吉田司家の土俵や博物館、全部込みで60億円で引き取る約束になった。 

4 許永中と桐山氏は、週に2回は会っていた。 

5 吉田司家の宝物は、平成7年後半に阿含宗に運び込まれた。 

6 ところが、イトマン事件が発覚すると、桐山さんは、そんな話は知らないと言い出した。 

7 阿含宗の顧問弁護士は、大阪地検のヤメ検ばかりなので、大阪地検は手が出しにくい状態だった。 

8 阿含宗のバックには、住友本家の泉家がいて、泉家累代の供養墓は阿含宗の境内地の一番良いところにある。 

9 許永中氏は、阿含宗に裁判を起こしたが、証拠があるにも関わらず、敗訴した。 

 

桐山氏の前科をもう少し詳しく見てみます。

桐山氏の逮捕歴は3度あります。 

昭和27(1952)年8月16日、詐欺、契約違反、警視庁西新井署 昭和27(1952)年12月12日、手形詐欺、千葉県松戸署 

 

昭和28(1953)年8月16日、酒税法違反、私文書偽造、警視庁防犯課 このうち、裁判で有罪になったのが、三番目の事件です。 桐山氏の素行を確認しましょう。 

・桐山の警備員のТ石氏は拳銃を持っていた。

 ・桐山はM野組のM野氏に「阿含宗管長室顧問」という肩書きをあたえていた 

・阿含宗は長年М野組に土地や建物の購入を任せていた。 

・桐山は批判本を潰すために、M野氏に命じて、裏社会から手をまわし、 金銭的誘惑もおこなった。

 ・数十億円をМ野氏に騙し盗られ、居住地もわかっているのに、裁判にさえも訴えなかった。

 ・花山の土地購入に山段氏が関わっていた。 

・花山で護摩を焚くことを勧めたのは山段氏である。 

・関西総本部、病院を仲介したのは山段氏である。 

・阿含宗の星まつりに地元の裏社会の人たちの車が並んでいた。 

・星まつりに、来賓として旧型の高級ベンツを18台連ねて来て、 本殿に入り、紙袋だけ受け取って、護摩も参拝せずに帰った。 

 

本題に戻りましょう。少し解説すると、吉田司家は、日本の大相撲を司る家です。1000年以上の伝統を持ち、横綱も本来ならこの家が許可しないと、誕生しない建前になっています。つまり、仮に阿含宗が、この吉田司家を支配下に置くと、阿含宗は単なる新興宗教から、格式と伝統を誇る宗教団体になることになるのです。その値段が60億円だと言うことです。高いか、安いかは、判断できないところです。 

 

吉田司家の宝物は、相撲と言うよりも、文化的に貴重な資料です。そのうち、破損の激しいものは、2、3億円のお金を出して許永中氏が三越に頼んで補修してもらい、現在も許永中氏が保管しているとあります。それ以外の宝物は、阿含宗が保管していることになっています。その量は、トラック1台分になります。が、許永中氏が阿含宗に宝物の返還を顧問弁護士を通じて要求したところ、阿含宗の顧問弁護士(元大阪地検検事)を通じて、桐山さんは、「そのような事実はない」と保管の事実そのものを否定しています。結果的に、「裏付けのある資料があるのに」許永中氏は敗訴したみたいです。(もちろん、これは許永中氏の言い分です)すると、吉田司家の宝物は、どうなっているのか問題になります。 結果的にイトマン事件は阿含宗の野望を挫いたっていうわけです。大相撲と阿含宗って考えたことも教団内で話題になったこともなかったがそんなことがあったのです、桐山はこういった阿含宗上げの出来事があるとすぐ例祭法話で信者に話し拍手喝采されることが大好きだったのだがそうなる前に破綻したってことなんです。嘘つきカルト教団はこんなことしないと体面を保てないってことなんです。求聞持法が本当にあればそれだけで革命的な宗教団体になったのに。しょせん詐欺宗教は金と権力と裏社会に頼るしかないってことでしょうね。 

 

阿含宗と暴⚫団は持ちつ持たれつの関係、桐山は暴⚫団の締め付けや排除は良くない、共生をとなえていました。相撲の話しもよくしてました。成仏法があるならば…と教えていましたが阿含宗を大きくする為に成仏法が無いので?いろんな方々とお付き合いしていたのでしょう。『德』の力と言いながら、信者から集めた金の力で。田中角栄の金満政治を真似たのかもしれません。金は力なり。