金本知憲、矢野燿大、下柳剛の1968年組に代表される通り、阪神タイガースの歴史には主力選手としてチームを引っ張ってくれた外様がたくさんいるけど、どうしても生え抜き以外の選手のナンバージャージを着ようという気にはなれなかったりする。
だから、ナンバージャージはずっと53番だったし、今は24番だ。
逆に、トレードで他球団に出て行った選手には何時までも愛着があって、今でも藤本敦士や今岡誠が何をしているのかが気になる。
日本ハムファイターズへ行った坪井智哉と新庄剛志もそうだった。
片岡篤史が阪神にやって来たとき、日本ハム時代に使っていたファンファーレを阪神応援団がそのまま使ったお返しだったのか、日本ハム応援団は“あの有名な ”坪井のファンファーレ 『♪ PL~ 青学~ 東芝~ 坪井~ ♪』 に、『阪神!』 という合いの手を挿入して、そのまま使ってくれていたのが嬉しかった。
坪井とは縁があったのか、2010年3月22日の札幌ドームでのソフトバンク戦を観戦したときは、代打で2点タイムリー二塁打を放ち、史上434人目となるプロ入り通算1000試合出場を飾ってくれ、目の前で見ることができた。
また、日本ハムはホームゲームに勝った日は、試合終了後、選手全員がサインボールを観客席に投げ入れてくれるが、2010年7月7日 七夕の日、東京ドームでのソフトバンク戦で見事にキャッチしたサインボールには 『7番 坪井智哉』 のサインが入っていた。
この年で日本ハムを去ることになる背番号 7番の坪井だけに、7月7日の日付け入り、7づくしのサインボールを手にできたことは感慨深いものがあった。
そして・・・本題の新庄剛志。
2006年6月19日 阪神タイガース 対 日本ハムファイターズ。
新庄剛志にとって甲子園球場での最後の試合となった日。
その姿を見届けるため、一塁側アルプススタンドのチケットを手にした。
2006年4月18日、東京ドームでのオリックス戦でホームランを打ったとき 『28年間思う存分野球を楽しんだぜ。今年でユニフォームを脱ぎます打法』 と名付け、突然の引退表明を行った新庄剛志。
試合後のヒーローインタビューで改めて 『・・・タイガースで11年、アメリカで3年、日本ハムで3年・・・。今シーズン限りでユニフォームを脱ぐことを決めました。』 と宣言して迎えた交流戦だった。
阪神が5回、フォアボールの赤星を置いて金本が特大の9号2ランで先制。
その後、矢野のスリーベース、藤本のツーベースで計5点。
阪神の先発は井川は2点を許すも、7回には藤川、8回にはウイリアムス、そして9回に久保田がマウンドへ。
阪神が5-2とリードで迎えた9回表。
この日、三塁併殺打、センター前ヒット、レフト前ヒットの3打数2安打で迎えた新庄剛志の甲子園での最後の打席。
初球アウトコースの152kmストレートが高めに浮いてボール。
2級目アウトコース低めの132kmのカットボールを空振り。
3級目146kmのストレートを一塁側スタンドへファール。
4級目150kmのストレートが高めに浮いてボール。
そして、5級目アウトコース低めの136kmのカットボールを空振り。
阪神時代、豪快に空振りの三振をしていた新庄らしく甲子園での最後の打席も豪快な空振りの三振で決めてくれた。
この年の日本シリーズの最後の打席で泣きじゃくる新庄に対して、相手チームだった中日のキャッチャー谷繁が 『泣くな! まっすぐ行くぞ。』 と言った話は有名だけど、この甲子園の最後の打席では新庄は泣いていたのだろうか。
三振してベンチへ戻っていく新庄に対して、阪神ファンから贈られた本当にものすごい大歓声はちょっと忘れられない。
後でビデオを見ると、照れくさそうにヘルメットのつばに手をやっている新庄の心から 『ありがとう』 というメッセージが聞こえてきたような気がした。
敬遠球のサヨナラヒット、突然のメジャー挑戦、オールスターでのホームスチール、始球式のセンター前ヒット・・・突拍子もない言動でワクワクさせてくれた新庄だけど、その裏には、いつも緻密な計算と準備があったに違いない。
阪神で、メジャーで、そして札幌で、ファンを魅了し続けてくれた新庄剛志は、いつになっても忘れられないアスリートの一人だなぁ。
今でも日本ハムの試合に行くときは、このユニフォーム。
これからもずっと阪神と日本ハムを愛した男の誇りを持って、このユニフォームを着続けようと思っている。