2003年の夏、僕たちの話題は 「Xデーは何月何日か?」 で持ちきりだった。


7月8日、マジック49が点灯。
貯金35での首位ターン。
史上初となる4月から4ケ月連続の月間15勝。

阪神タイガースの1985年以来の優勝が現実となってきた。


これまでの阪神タイガースの胴上げは、


1962年(昭和37年)10月3日 甲子園で広島を6-0で下し、2リーグ制以降初の優勝


1964年(昭和39年)9月30日 甲子園で中日を12-3で下し、2年ぶりの優勝


1985年(昭和60年)10月16日 神宮でヤクルトと5-5で引き分け、21年ぶりの優勝


1985年(昭和60年)11月2日 所沢で西武を9-3で下し、初の日本一


甲子園での胴上げとなれば39年振りとなる。
せひとも・・・この目で見たかった。


とは言うものの、毎年、死のロードが終わった頃にはガラガラになる甲子園なのに、さすがにこの年のチケットはなかなか手に入らない。
当然のことながらビジターゲームで決まってしまう可能性もあるわけで、なかなか高騰しているオークションに手を出す訳にもいかず、たった1枚のチケットしか確保できていなかった。


9月15日のアルプススタンド。

この日が 「Xデー」 だと信じて、念じて、9月を迎えた。



ちなみに、2003年9月の日程はこうだった。


9月 2日 広島(広島) ○7-4
9月 3日 広島(広島) ○5-4
9月 4日 広島(広島) ×1-4
9月 5日 横浜(甲子園) ○4-3
9月 6日 横浜(甲子園) ×4-7
9月 7日 横浜(甲子園) ○8-3
9月 9日 ヤクルト(神宮) ×3-10
9月10日 ヤクルト(神宮) ×2-3
9月11日 ヤクルト(神宮) △7-7
9月12日 中日(ナゴヤ) ×1-2
9月13日 中日(ナゴヤ) ×7-9
9月14日 中日(ナゴヤ) ×0-5
9月15日 広島(甲子園)
9月16日 広島(甲子園)
9月17日 広島(甲子園)


9月9日からの神宮で決まる可能性があった。


9月12日からのナゴヤドームでは、ほぼ決まるだろうと言われていた。


仲間内には、9月14日のチケットを持ってナゴヤドームへ行った奴もいた。
翌日16日の甲子園のチケットを持つ奴もいた。(コイツが一番勝ち誇っていた・・)


ちなみに、当時のオークションの相場だけど、9月15日の外野指定ペアが、34000円(1枚 17000円)、オレンジシート(三塁側内野特別指定)ペアが、90000円(1枚45000円)等々。


そういう価値のチケットだったんです。。コレ。


夢は終わらない

2003年 9月15日。
マジック2で広島戦を迎えた。


優勝の条件は「14:00スタートの広島戦で阪神が勝ち、かつ、16:00スタートの横浜 - ヤクルト戦で横浜が勝つ。」という厳しいものだった。


試合のことは、阪神を応援している人ならみんな覚えているだろう。


先発の伊良部秀輝が6回1/3を2失点でゲームメイク。
3回表、後にチームメイトとなる広島シーツに23号先制2ランホームランを許す。
5回裏、レフト前ヒットの矢野輝弘を2塁におき、沖原佳典が反撃の口火となるタイムリー。
8回裏、片岡篤史の11号ホームランで同点。
9回表、同点ながら安藤優也がマウンドへ。


そしてあの9回裏がやって来た。


1アウト満塁。
赤星憲広の打球がライトの頭上へ飛ぶ。


観客が一斉に立ち上がり一瞬見えなくなる打球・・・コンマ何秒か後、フェンス際をはずむ打球が見えた。

サヨナラ勝ち。


星野監督が赤星憲広を抱きしめて祝福したシーンはあまりにも有名になったよね。。


1つめの条件をクリアして、マジック1。
17時30分だった。


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【GAME DATA】
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対広島23回戦

広島 002 000 000 2
阪神 000 010 011x 3x


勝利投手:安藤 5勝2敗5S
敗戦投手:鶴田 2勝3敗0S
(阪神:伊良部~リガン~安藤)
(広島:河内~長谷川~菊地原~澤崎~鶴田)
本塁打:シーツ23号、片岡11号
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場内アナウンスで 「横浜-ヤクルト戦の中継を行います・・」 と言ったのが先か、オーロラビジョンに映像が映し出されたのが先か、はっきり覚えていないんだけど、18時を過ぎてオーロラビジョンで横浜スタジアムの中継が始まった。


プロ野球を見に行ったことがある人ならみんな知っていると思うけど、(試合の状況にもよるけど) たいてい7回~8回くらいになると売店は片づけをはじめる。
それまでは、さんざん視界を遮っていた売り子の数もあっという間に少なくなる。


この日も同様で、まさか5万観衆がほとんど残ってもう1試合見る状況になるとは思っていなかっただろうから、試合終了後、球場内で購入できる飲食物はほとんど無くなっていた。


9月とはいってもまだ蒸し暑かったこの日、スタンドでは、喉の渇きと空腹との戦いが始まっていたのだ。


基本的に途中退場は禁止なので当然のように諦めていたけど、特殊な事情なので思い切って係の人に交渉してみると、あっさりOKと言われた。。
「よしッ!ラッキー」 と思って、コンビニに行こうとスタンドから外へ出た瞬間に・・・ガーン。。コンビニ袋を持った人がうようよしていた。
それなら場内放送してくれれば良いのに、途中退場OKを知らずにスタンドでがまんしていた人がけっこういたんじゃないかと思う。


喉の渇きと空腹を癒した後は、すっかり暗くなってきた甲子園でステキな時間を過ごすことができた。


横浜が大量リードしている試合展開も安心でき、1塁側ベンチにはタイガースの選手も戻ってきて、一緒にオーロラビジョンに見入っていた。


場内ではウェーブが湧き起こり、いよいよ祝勝ムードが高まる。
ベンチにいたタイガースナインもウェーブに参加し、場内は最高潮に達していた。


19時30分。

ヤクルト最後の攻撃も2アウト。
他の球場で行われているゲームなのに、甲子園球場に響き渡る 「あと一人」 コール。
そして、時を待つジェット風船。


19時33分、真中満の打球がショートに飛んだ瞬間・・・奇跡の 「夢」 が実現した。


桧山進次郎が、矢野輝弘が、マウンドへ向かって走り出し、あっという間に歓喜の輪が広がった。


4回、5回と星野監督が宙に舞う姿。


「・・・このタテジマで、この甲子園で、みんなの前で胴上げされたかった・・・」


星野仙一監督のこのひとことは忘れられない。


タテジマの優勝を見たかったから。
甲子園で胴上げを見たかったから。

本当に見たかったから。。


1985年には胴上げ試合のチケットは手に入れられなかったし、それから19年間、胴上げの試合すら存在しなかった。

2005年9月29日の対巨人22回戦のチケットも手に入れることができなかった。

それから現在に至るまで、再び胴上げの試合が存在しないシーズンを送っている。


これからの人生で、もう一度、甲子園で胴上げを見ることができるだろうか?



星野仙一監督が頼まれた色紙に決まって書く言葉は 「夢」。


「人生は夢と希望や。夢に向かって努力する。それが尊いんや。男・仙一はどこまでも夢を追い続けるで。」



まさに 「夢は終わらない」 だよね。


あの瞬間、あの感動、これからも何度でも味わいたい。

ありがとう・・・ 2003年の阪神タイガース。



夢は終わらない