日本にワールドカップがやって来てから、ちょうど10年後の6月・・・「UEFA EURO 2012」 が、ポーランド・ウクライナで共催された。
その決勝戦、スペイン対イタリア戦で相見えた2人のキャプテン・・・現時点で世界を代表する2人のゴールキーパー。
ジャンルイジ・ブッフォン と イケル・カシージャス。
1998年フランス大会で20歳の若さで最終メンバーに選出されるも出場機会はなく、2002年大会で初めて正ゴールキーパーとして臨んだブッフォン。
そして、2002年大会でサンティアゴ・カニサレスがアクシデントにより負傷したため、弱冠21歳にして正ゴールキーパーに抜擢されたカシージャス。
この偉大な2人のゴールキーパーは、ともに2002年大会で初めてワールドカップのゴールマウスを任されている。
しかし、ブッフォンのイタリアは決勝トーナメントの1回戦で、そして カシージャスのスペインは準々決勝で ・・・・ いろんな意味で2002年大会の話題をさらった韓国大躍進の前に涙を呑み、相次いで決勝トーナメントの韓国戦で大会を去ることになってしまったのも何かの縁なのだろうか。
その後の2006年大会でイタリアを優勝させたブッフォン、2010年大会でスペインを優勝させたカシージャスは、あの大会の悔しさをバネにして世界のトップへ駆け上がったに違いない。
シャビエル・エルナンデス・クレウス、、通称シャビは2002年は控えに甘んじていたが、韓国に敗れた準々決勝では試合の流れを変える切り札として延長前半途中から投入されていた。
PK戦では3番手キッカーとして出場した彼もまた、あの敗戦の悔しさを忘れずに、今では頂点を極め続けているのだろう。
2002年大会が終わった10月、ルイス・ファン・ハール監督によってFCバルセロナのトップチームに招集され、10月29日のUEFAチャンピオンズリーグ、クラブ・ブルッヘ戦でデビューした18歳の天才。
アンドレス・イニエスタ・ルハンが2002年大会をどこでどんな想いで過ごしたかを聞くチャンスは無いけれど、FCバルセロナのトップチームへの昇格を予感してワクワクしながら見ていたのかもしれない。
自分が10年後にバロンドールの有力候補になる姿を想像していたかどうかは判らないけど。。
世界中のサッカープレイヤー1人1人の心の中に、この2002年大会が活き続けていることは間違いないんだろうな。。
そういえば、2002年の最初の観戦となった鹿島での試合で、先制のヘッドを炸裂させ、華麗なバク宙を舞ってくれたミロスラフ・クローゼは、EURO 2012でもまだまだ健在だった。
EURO 2012で、ポルトガルとの初戦を戦った6月9日にちょうど34歳を迎えたクローゼは、8歳下のマリオ・ゴメスが先発起用されても不満をこぼさず 「自分をレギュラーとは思っていない。重要なのはチームの勝利。そのためならなんでもやる。」 と言ったという。
準々決勝のギリシャ戦で、EURO 2012では初めて先発起用され、68分に3点目、6分後の4点目も演出して見せた。
準決勝イタリア戦の前半にもクローゼがいたら、決勝の組み合わせは変わっていたのかもしれない。
「今のドイツ代表ではボールが無いところでのフォワードの動きが極めて重要になる。自分にはそれができる自信がある。もちろん2014年のブラジルワールドカップを目指すつもりだ。」 と力強く語ったと聞いた。
クローゼの挑戦は、これからも続くんだろう。
2014年、世界最大の収容人数を誇るリオのマラカナン・スタジアムで、エジルのパスをゴールに叩き込んで得意のバク宙を決める姿を見てみたいと思う。
その鹿島での対戦相手のアイルランドは、2002年大会の後、10年間の間、世界の舞台への道を閉ざされてしまっていた。
10年振りの檜舞台であるEURO 2012では、ロビー・キーンもまた健在だった。
ロビー・キーンといえば、2002年大会で宿泊したホテルのロビーでふざけてボールを扱っているうちに、誤ってシャンデリアを壊してしまったエピソードを聞いたことがある。
大きな破損ではなかったもののキーンは弁償すると謝ったが、支配人は「シャンデリアにサインをしてくだされば結構です」と許したとのことで、現在もキーンのサイン入りシャンデリアは島根県出雲市のそのホテルで見ることができるそうだ。
アイルランド代表の試合は、世界中どこへ行ってもスタジアムがダブリンになる。
彼らが戦う試合は、いつでもホームゲームだ。
EURO 2012では敗退の決まったイタリア戦のあと 「ありがとう世界一のサポーター」 という横断幕を選手の方がピッチからスタンドへ向けて掲げていた。
試合の終盤で必ずアイリッシュ魂を呼び起こす応援を、あの鹿島で自分の目で見れたことは忘れられない。
彼らはEURO 2012から帰国する時も誇りを持って、鹿島の時と同じように唄い続けていたのだろうか。
5月に事前キャンプを見学に行ったデンマーク代表は、キャンプ地・和歌山に多くの感動を残してくれた。
チームが事前キャンプで和歌山市に滞在していた5月。
練習場でサインをもらい損ねた母子が、練習場から帰る選手のバスを走って追いかけたことがあって、子供らが3キロ近く離れたホテルに到着したとき、バスにはすでに選手の姿がなかったが、2人に気付いたオルセン監督が笛を吹いて選手を呼び集め、全員でサインをプレゼントしたという話を聞いた。
子供は大喜びし、母親は感動して涙をこぼしたという。
自分が見に行った日も、2002年当時はセリエAでプレーしていたヘルベーグが、練習場から帰るバスに一旦乗ったあと、バスの裏側にも大勢のファンがいるのを見て、わざわざバスから出てきて全員にサインをしてくれた。
「何番??」 という女子高生の日本語の質問も身振り手振りで聞き取ったのか 「six」 と英語で答えてくれていた。
そのヘルベーグは決勝トーナメント1回戦のイングランド戦で試合開始早々に痛んでしまった。
あの大事な一戦で、早々に戦場に背を向ける事になってしまった北欧の心優しい戦士は、本当に悔しかったに違いない。
パラグアイ代表が事前キャンプを張った松本市では、「日程がなかなか決まらず苦労もしたが、練習はすべて公開されたし、交流行事にも積極的に取り組んでくれた。他国に比べ、パラグアイチームは誠実だった。」 と実行委員会の一人が語ったとのこと。
親善試合や学校訪問など関連事業への参加者は延べ約3万7400人に上ったらしく、選手たちが気軽にサインに応じる姿はあちこちで見られたらしい。
パラグアイ代表チームの主人公となった主将のチラベルトは、サッカー少年たちの前で世界の技を披露し、多くの施設を訪れて子供たちを励まし続けたという。
自身、恵まれない境遇で育っており、その行動や励ましの言葉は多くの市民を感動させ、チームに親近感を持たせたらしく、「経済効果よりも、青少年に与えた影響の大きさは計り知れない。」 と、終了後にキャンプを総括した有賀市長の感想は、本当にその通りだったのだろう。
パラグアイ代表がキャンプを張った松本市には、山雅サッカークラブという1965年創部の歴史あるチームが存在する。
現在は、松本山雅FCと名前を変えてJリーグに加盟し、J1昇格を狙っている。
2011年の春、このチームに松田直樹が移籍した。
2002年にチラベルトのサインをもらった子供たちが、選手として松田直樹と同じボールを追いかけていたのだ。
2002年の日本代表の代名詞といえばフラット3だった。
前線からのフォアチェック、中盤のプレスを効果的にかけて、ボールを奪う戦術。
そして、フラット3に不可欠な存在だったのが松田直樹と宮本恒靖だった。
フラット3を精神面で支えた宮本恒靖は、7月16日に引退試合を迎える。
そして、フラット3をフィジカル面で支えた松田直樹は・・・・ もういない。
昨年の8月2日、梓川ふるさと公園での練習中に突然倒れ、心肺停止の状態で緊急搬送され、そして彼は意識を取り戻すことはなかった。
34歳だった。
前橋育英の頃から大型ディフェンダーとして注目され、各カテゴリーの多くの試合で日本代表を支えてくれた姿を、何回も何回もスタジアムで応援してきた。。
横浜マリノスで戦っていた時は、敵チームとして憎たらしいくらい高いカベだった。
強くて、早くて、熱くて、、、それなのに自分のことには不器用で、サッカーに対して熱すぎる故に自ら去ってしまった日本代表に、再び戻ることはできなかった。
もっと日本代表のために必要だったのに。。
チュニジア戦を勝利し、笑顔が弾けていた日本代表の中心にいた姿を忘れることはないと想う。
2002年大会でカメルーン代表として戦ったマルク・ヴィヴィアン・フォエもまた、2003年6月26日のFIFAコンフェデレーションズカップ準決勝の試合中に心臓発作で倒れ、28歳の生涯を閉じている。
サッカーは僕たちが生まれる遙か前に始まり、これからも地球の至る所でボールは蹴り続けられていくんだと思う。
多くのことを教わり、かけがえのない想い出を得て、失ったものも哀しく・・・
・・・ それでも、地球の至る所でボールは蹴り続けられていくんだと思う。
だからこそ・・・ あの日々のことは忘れない。
日本にワールドカップがやって来た10年前の6月。
ありがとう、、直樹。
ありがとう、、マルコ。
「オレ、マジ、サッカー好きなんすよ。」
・・・ 松田直樹が横浜マリノスを去るときにスタンドに向かって叫んだ言葉である。