子供が不登校になると多くの大人は「何で学校へ行けないの?」と尋ねる。頭ごなしに決めつけるのは良くないと言われているせいか、理由を聞こうとする。

 ということは、本人が理由を知っていると思っているからである。自分自身も高校の入学式で不登校一歩手前まで落ち込んで、今なら不登校になっていた。しかし、当時ならなかったのは何故か?そんなことをしたら親父に殺されるという恐怖心から踏みとどまった。

 校長の式辞の内容が大学入試の話だったのである。それを聞いて、「とんでもない学校へ来てしまった」と思った瞬間に心底落ち込んでしまった。合格したから、「しばらく羽を伸ばして」なんて考えていた自分が甘かったのだ。入学式の帰り道、うなだれて歩いた記憶がはっきりある。

 

 登校していたが、全くやる気が無く、ただただ学校へ行って帰ってくるという生活だった。そして、「校長先生の話のお陰で、俺はやる気をなくした」と、その後10数年間誤解をしていた。教育相談を学んで、校長の話は単なる切っ掛けでしかなかったことを理解した。450人の生徒がいて、私1人だけが落ち込んだということは、それだけ自分には耐性がなかっただけの事だと理解できた。

 

 そして、意外と本人は分かっていないということも分かった。だから、「何故学校に行けないの」と聞いて的確に回答できないことを知っていた。「なぜ、学校に行けないの?」と聞かれれば、それなりに理由を考えるが、自分では分かっていないから、ほとんどがずれているのだ。自分ではっきり分かっていれば、自分で回避できるものである。不登校の「原因」と言わないで「要因」と言ういみはここにある。不登校に至るまで様々な要素が考えられ、原因と結果という因果律では説明できないため、要因と言われている。

 

 稀に「いじめが原因の不登校」の場合は、いじめを取り除けば登校できるため理由を聞くのも無駄ではない。いじめを取り除いても登校できない場合は、聞かれるから「いじめられるから」とか「先生が怖いから」などと理由付けをしたと捉える必要がある。それらは全てが「誘因」(きっかけ)でしかないのである。きっかけは、引き金であり弾丸が無ければ引き金を引いても弾丸は発射はされない。

 実際に経験した数百例の不登校の相談事例では、いじめが原因のもの1件もなかった。

 

 実際に不登校になったらどうするか。

 3年生以下なら、2ケ月を目途にした強制登校で、大部分解消する。

 

 4年生以上はとりあえず休ませる。休ませると言っても精神的に休ませるのであって、肉体的に休ませる必要はない。

 

 これはどういうことかと言えば、学校に関わること一切を親が放棄することである。学校の話をしない。家から学校への電話も学校からの電話もしない。当然勉強のことも言わない。登校してもらいたいという顔は厳禁である。

 学校との関わりを一切外すことによって、心の安らぎを得ることができて休まる。家では数日後から、家事労働をさせることである。「働かざるもの食うべからず」なのだ。学校へ行くのであれば、働くことを猶予するが、行かなければ働かなければならない。アルバイトもできないから、とりあえずは家事労働をすれば良いということで、やらせる。家事労働は年中無休である。

 

 しばらくすれば、必ず学校へ行った方が良いとなって登校し出す。不登校の対応は、以上の2つで大丈夫である。

 

 ただ、この2つを実行するためには、親の覚悟が何より大事である。いわゆる毅然とした態度だ。強制登校には子供が泣いても喚いても毅然と登校させるという姿勢である。その際「いくら泣いてもいいよ。いくら暴れてもいいよ。でも必ず学校に連れて行くよ」と宣言して実行する。これは、しつけであるから、し続けることが何より大事になる。

 

 4年生以上はしつけは通用しないから、相手を納得させてやらせることである。学校へ行かなければ働くのが筋である。その筋を徹底して通せばよいのである。これも覚悟が大事で、親はやり方は教えても肩代わりは絶対にしないことが何より重要である。家事労働は、炊事、洗濯、掃除を毎日やらせることである。これができれば、学校へ行っているより有意義とも言える。間違いなくたくましい人間になっていく。

 大昔の親は、「学校へ行かなくても良いから家の手伝いをしろ」と言ったようだ。家の手伝いの方がはるかに辛いため不登校の子供は皆無だった。

 

 最悪は、「しばらく休ませて様子を見ましょう」という対応だ。これをスクールカウンセラーが言っていたら、力量を疑った方が良い。まともなカウンセラーであれば、不登校の子供の話を1回でも聞けば、最低でも1つはアドバイスができるはずである。親は対応を知りたいから相談に来る。話を聞くだけでは先には進まない。2年も3年も不登校の相談を続けているカウンセラーがいたが、そんなことでは話にならない。

 

 大別すると過去を重視する心理療法と全く過去は関係なくこれからどうするかを重視する心理療法がある。筆者は基本的には後者の立場である。大事なのは今後でしかないと常々思っていたので学校でもそのように接して来た。忘れ物の原因を探る必要はない。これから忘れないようにしていくだけである。この立場だと長い説教はしなくなり、それだけでも子供は喜ぶため結果が良くなる。

 

 大きな間違いで多いのが、話して人間が変わると考えることである。「良い話だ、なかなかためになる」と思っても何も変わらない。厳密に言うと、その人の意識は変わるかも知れない。

 ただ、認知行動療法では、意識を変えるのが最も難しいと言っている。意識は変わらなくても行動は変えられるのだ。というより、我々は日々行動を変えて過ごしている。アホな上司や親の言うことに従う振りをして行動することが、まさにそれである。

 

 親の言うことに従う振りをして行動することは、精神的に疲れることになる。これが度重なると不登校の素地を作っていくことになる。「息子と一心同体で過ごしてきた」なんて言う親の子供は悲劇である。自分以外の人と一心同体なんてあり得ないからだ。そもそも「一心同体」などという美しい言葉に騙されやすいのが我々新人類である。

 

 心の休養は、プレッシャーのない状態で、思い切り羽を伸ばす必要がある。

 われわれは、生まれてからずうっと、優しくあるべきだ。勇気を持つべきだ。真剣にやるべきだ。努力するべきだ。仲よくするべきだ。思いやりを持つべきだ。等々、様々なプレッシャーがかけられる。

 不思議なことにプレッシャーを掛ける人は、様々なプレッシャーを搔い潜って生き抜いてきた人である。自分は大してプレッシャーとも感じずに来たので、同じことを言っても大丈夫と思い込んでいるため、自分言うことがプレッシャーにしかならないという自覚は全くないのだ。当然それが悲劇に繋がっていくとは知る由もない。