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アフターコロナを生き抜く!これから起こる変化について発信するブログ

コロナ後は価値観の変容が起きます。新しい時代に向けた準備をはじめましょう。テーマは環境保護、自然農、瞑想、健康食品など、興味があればコメントください!

こんにちわ。




今シーズンも自然農、開始いたしました。




じゃがいもを植えたり、






ブロッコリーを収穫したり、


 





それにしても、春先とは言え草がすごい。






草本番の夏はどうなることやら。





草は敵とせず、が
自然農の基本ですが、
放置はとても脅威となります。





今読んでいる本に
草についての記述があり、共感を覚えました。





参考書籍:ぼくはテクノロジーを使わずに生きることにした
マークボイル氏 著




著者はアイルランド出身で
島へうつり、文明の利器はすべて捨て、
自給自足の生活を営んでいる人です。





便利な道具を捨てさることで
自然に真正面から向き合える。





その生活の中から得たインスピレーションで本書は溢れています。





著者が近隣の牧草地について
ご近所さんと話す場面があります。




牧草地と言ってもそれは過去の話で、
今はイグサが繁殖してそれに覆われている
いわゆる荒れた土地になってしまった。






豊かな牧草地はなぜ荒地になってしまったのか?

地球温暖化か?






耕作時に使用されるトラクターなどの重機は
その重みで、土を固くします。





それが原因で土壌が変わり、
そこに生息できる植物も大きく変わってしまったのではないか。
、というのが著者の指摘です。





固い土は牧草にとって過酷な生長環境になり、
代わりにイグサなどタフな草に有利な環境になった、
というわけです。





また草のみならず
ウズラクイナなどの鳥類の
個体数が激減するなどの事態を
引き起こしている。





それがウズラクイナのみならず
近い将来農民すらも生き残れなくなる
事態になるかもしれない。






土地の構造を人間の都合で
部分的に変えたということ。





でも、この世界は
生物共同体で、本来一つのもの。





部分だけをいじくることは
本来できないはずなんです。






そこで著者は発想を豊かに興味深いことを言っています。





「イグサは増え広がった人類を駆逐するために
がんばる先駆者(パイオニア)なのではないか?」




四月上旬の自然農畑は
勢いよく伸びてきた草に
たちまち覆われつつあります。




ほんとうに人間を駆逐する
勢いがあるように感じられます。





人間を駆逐した後、
減少した他の種が生きやすい環境を整える。





風景に多様性と野生を徐々に取り戻すことを助ける。





何かとてつもなく大きな自然の意志みたいなものを
感じますね。






この自然農もこの生物共同体の一部として成り立つことものです。






だから、取り組みにおいて大切にしたいことは
自然との調和です。



畑で会ったカエル。まだ冬の保護色


収量などにこだわり過ぎて、
自然を人間都合で変えようとしたとき
過ちを犯します。






このイグサの教訓をしっかりと肝に命ずることが大切ですね。






もっと早くみんながこのことに
気づかないといけないと思います。



本日は自然農、その在り方 草は生物共同体多様性を取り戻すための先駆者か?!

ではまた。
 

こんにちわ。


今日は関大徹さんの「食えなんだら食うな」という書籍
を読んで、感銘を受けたので、ブログを書きます。






関さんは禅のお坊さんで
明治36年に生まれ
昭和60年に亡くなっています。






この「食えなんだら食うな」は
昭和50年(1975)に出版、
2019年復刻版が再出版されました。






禅とは何か。

その定義に照らし
世相をきっていく。
痛快でとても良いのです。





中でも感銘を受けたのは
「無報酬ほど大きな儲けはない」という章で、
正しい徳の積み方が記されていて、
とてもためになりました。





人はなぜ徳を積まねばならないか?





本来無一物という禅の教えがあります。





「本来無一物(ほんらいむいちもつ)」とは
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仏教、特に禅宗の言葉で、この世のものはすべて実体がなく空(くう)であるため、
執着すべきものは何もないという意味です。人間は生まれた時は何も持っておらず、
死ぬ時もまた何も持たずに還るという考え方に基づいています。
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「本来無一物」のAI回答

(最近の調べものはAIがみんな答えてくれちゃいます!何か味気ないような気もします。)




この世界観に則せば、
この世は何もない、つまりは「無」。





でも、人間はお金やものなどへの
執着が強くて人間本来の姿からは
かけ離れ過ぎてしまっている。





その本来に戻っていくため
徳を積むということが必要になってきます。





善行を積んでいくことで
どんどん執着から解放されていく。





でも、その徳の積み方にも作法があると本書は説きます。





それは徳は無報酬であるべきということ。




「無私」になることが大前提なのです。




でも人は(自分も含めて?!)
つい善いことをすると、
見返りや感謝を求めてしまう。




これはいけないことだと言っています。





感謝などの見返りを受けて
いい気になってしまったときの
大きなデメリットについて本書は教えてくれています。





徳を積んだつもりが
多大な感謝にあってしまったとき、
人は誤ちをおかしてしまう。






p79
「それを大げさに感謝されるとどうであろう(中略)
してやったという気分になるであろう。
おれはこれほど善い行いをしたのかとあらためて思いなおすであろう。
なぜかと言えば他でもない。いい気になったとき
その人はすでにこの上もなく得意な気分
という代償を得ていることであり
その「徳」は霧消するからである。」





善行を行う良い機会に恵まれた、
そのことに静かに感謝していればよい。



過大な感謝を受けて、いい気分になってしまうと
徳が帳消しになる。



だから「無私」でなければ徳は積めない。



徳を積むのは厳しいことなのです。



そして、徳を積む側のみならず
善行を受け取る側にも注意が必要だといいます。



受ける側にも「無私」が必要なのです。



過分な感謝は慎んであげるべき。




これは良い気分という代償を
相手に得させて徳を消させないために
必要なのですね。




受け側に「無私」が必要なもう一つの理由は
僕はこんなにもたくさんの寄付を
集めたという手柄感を防止するため。




これは寄付する側の徳を台無しにすると
同じように受ける側の徳も台無しにします。




だからおおやけの菩薩に成り代わって
無心に礼を述べるにとどめることが正しい
作法。




また、無私でないと金額の大小に
ついこだわってしまう。これも大切なポイントです。




p81
「考えてみるがいい。巨額の資産をなしている人が
百万円を投じたのと貯えらしい貯えもないひとの千円と
どちらが尊いか?(中略)百万円には這いつくばらんばかりに会釈して
千円には軽い叩頭でも良いという論法になる。」





そしてこうも言っています。




「しかしどうであろう、これは金に頭を下げているのではあって
「徳」に頭を下げているのではない。「徳」の評価でいうと
百万円より千円が尊いことだってありうる。
(中略)乏しい財布の中から千円札一枚を投じたのと会社や
高額所得者が税金逃れに一千万円を割いたのとどちらに徳の重さがあるか?」





金に頭を下げているにはハッとしましたね。





思い当たる節は山ほどあります。





またこれはお金だけの話でないと思います。




地位や外見なども内面の徳にはなんの関係もないので
金と同義になると思います。






でも、見返りも一切求めず
善行を行っていくことは
なかなかたいへんなように感じてしまいます。





それを励ますかのような
素晴らしいエピソードが
この章の末に紹介されていました。





大学生がお寺がある山に
無償の植樹をした話で、





その樹が育つのは30年先、50年先のこと。





そんな遠い将来、
植樹をした学生たちは
そのことなどすっかり忘れている。





親切をしたほうは
忘れてしまっても、
親切を受けたほうはけっして
その親切を忘れることはない。




徳は残る。




この世界の良い法則ですね。





本日はお金に頭を下げてはダメ?! 禅に学ぶ正しい徳の積み方 「食えなんだら食うな」関大徹氏著を読んで
ということでブログをお届けしました。

ではまた。

こんにちわ。
本日は日本語の微妙なニュアンスについて
ブログを書かせていただきます。

参考書籍:「日本の歪み」
養老孟司 茂木健一郎 東浩紀 3氏著








識者3人が日本の歪みについて語り合うという内容。
いろいろな気づきが得られてとても興味深い本です。






なぜ、人は生きづらさを感じてしまうのか?
なぜ、人間関係はこんなに息苦しいのか?






これらの「なぜ?」について
さまざまな角度から
話し合っているのですが






その中で、日本語と英語が全く違う
言語の性質をもっていると書かれた箇所があって、
なかなか面白いと思いました。







言語には「事実確認的機能」と「行為遂行的機能」と
いう機能区分があるのだそうです。






日本語は行為遂行型で、
事実確認型には向かない性質をもつ。







例を出すと、
人から「あなたはどこから来たのですか?」と問われ、
「東京です。」と答えるのが事実確認的なのですが、
日本語ではどこかぶっきらぼうな印象を持たれてしまう。







だから日本語で実際答えるときには
「一応東京から来たんですけど。」
などと余計なことを言わないといけない。






そして日本語では事実確認的な言葉も
行為遂行的な言葉として受け取られがち
という指摘がされていました。




たとえば、「No smoking」
事実確認的言語の英語であれば
まったく問題ない。





でも、これを日本語で表すと
「ここは禁煙である。」となる。





事実を伝えただけですが何か失礼にあたるような印象をあたえてしまう。
そこで「ここでの喫煙はご遠慮くださいませ。」
などと周りくどく言わねばならないのが日本語なのです。





このように言葉の回り道をしているうちに、
微妙なニュアンスの違いを
愉しむことができるようになった
ことはメリットとしてあるのかもしれません。





昭和歌謡に「別れても好きな人」という名曲があります。





ロス・インディオス&シルヴィア

佐々木勉 作詞・作曲・編曲
1979年





ある女性が、以前別れてしまったの男性と
渋谷の街で偶然再会します。




別れた日と同じく、
その日は雨が降っていました。




二人は東京を散策します。




渋谷、原宿、高輪、赤坂、一ツ木通り





最後に女性が惜しみつつも男性にさよならを告げるのですが、
そのフレーズがとても素晴らしい。





「ここでさよならするわ、雨の夜だから、、。」
というのですが、とても粋な歌詞だなと感心します。





もしこれが通常の語順で、
「雨の夜だから、ここでさよならするわ。」
であればどうか??





これだと単に用件を伝えただけに終わってしまい、
全くつまらない。





「ここでさよならするわ、雨の夜だから、、。」
語順をこうするだけで切ない感じがぐッとでて
とても深い余韻を感じることができます。



語順はどちらでも同じ意味。

でも、全く違ったニュアンスになる。

これって日本語のすごさです!




これは作詞の佐々木勉さんを絶賛すべきですが、
それ以前に日本語がストレートに用件を述べたりすると角が立つ言語なので、
いろいろ気を遣わって語順などを変える必要があったがためにこの良さが生まれたのだと思います。






このように微妙なニュアンスを愉しめる
日本語って最高!と締めくくりたいところですが
人間関係を円滑にすると考えたときはどうかでしょう?







自分の気持ちをストレートに相手にぶつけたいが
ぶつけてしまうと相手に失礼となる。
だから、うまく自分の気持ちを表現できない人は
胸に自分の気持ちを隠したままもやもやするが黙っているしかない。






これはストレスがたまってしまいますね。







これが生きづらさの大きな要因になっているようにも感じました。







本日は 生きづらさの原因か?!日本語の性質が禍いしている。ということでブログをお届けしました。

ではまた。