こんにちわ。
本日は今に意識をとどまる技術について
ブログを書かせていただきます。
毎朝、瞑想しております。
時間にして、約1時間か
1時間30分くらいです。
この時間だけでも
内面に意識を向けられますから
貴重な時間です。
瞑想とは「今」にとどまること
だと思います。
何も対策を講じないと
人の意識は
過去や既知の未来に
向かいがちです。
でも、
これらは雑念ですので
振り払って、「今」とどまることが
瞑想には必要となります。
しかし、それが実際にやってみると
とても難しい。
なかなか
深い瞑想に至ることは少ない。
どうすればいいのかと
思っていたときに
今読んでいる本
がヒントをくれました。
参考書籍:「超自然になる」
J・ディスペンザ博士 著

瞑想中は「今」に集中しています。
でも、気が付くと
過去や未来に意識が
向いている。
知らないうちに「今」から
意識が離れてしまっているのです。
気づいて
今に意識を引き戻す。
でも、またちょっとすると
また過去や既知の未来へ意識が行ってしまっている。
また今に引きもどす。
でも、、
、、この繰り返し。
「雑念からは逃れられないのか?」
と言ったあきらめも出てきます。
でも、ここで
めげてはいけない。
投げ出さずに
今に引き戻す意識の作業を繰り返す。
そのことがこの本には書かれていて
勇気づけられました。

このことが
馬の調教に例えられていました。
始めのうちは
馬はなかなか言うことを聞いてくれません。
でも調教を粘り強く続けると
最後には馬は従ってくれるようになる。
瞑想も同じです。
始め身体はいうことを聞かず
雑念にばかり意識が流れる。
でも意識引き戻す作業を粘り強く続けると
最後には身体が降参して
集中が継続できるようになる。
そこで今日の瞑想で試してみました。
すると、雑念に戻らない
コツのようなものがつかめてきました。
そもそも内面に集中していたものが
いつのまにか雑念にまみれている。
集中→雑念
この切り替わりのタイミングは
いつなのか?
刹那と刹那の間ではないかと気が付きました。
「刹那(せつな、サンスクリット: क्षण)は、仏教思想において、人間の認識領域を超えた一瞬の間のこと。刹那はサンスクリット語の音写であり、念、念念等と漢訳される。」
インド哲学によれば
刹那ごとにこの世界は生滅を繰り返すといいます。
「アビダルマ哲学によれば、われわれの存在は刹那毎に生滅をくりかえす心の連続(心相続)である。唯識派は心相続の背後にはたらくアラヤ識(阿頼耶識)を立てた。 アラヤ識は、表面に現れる心の連続の深層にあって、その流れに影響をあたえる過去の業の潜在的な形成力を「たくわえる場所(貯蔵庫)」(ālaya)である。」
普段何気なく生きていると
この刹那、刹那の境目など
全くわからない、認識できません。
だから、集中していたはずなのに
いつのまにか雑念に支配されていた。
ということになっている。
でも内面に集中して、
それをずっとキープしていれば
その刹那の切り替えも
把握できるようになるはず。
それを今日の朝の瞑想で
おぼろげながら
つかむことができたような気がしたのです。
通常人は(特に私は)過去の出来事や
予測可能な未来(過去のコピー)のこと雑念に翻弄されている。
すると、エネルギーは分散する。
過去や既知の未来へエネルギーを流すことは
エネルギーの浪費です。
エネルギーは未知の輝かしい未来を引き寄せる
ために使われなければなりません。
今に集中すると
エネルギーを無駄にすることがありません。
輝かしい未知を創造するための
麗しいエネルギーに満たされているのです。
「今」にとどまることはまさに至福です。
本日は【精神世界】「今」に居るという至福。過去や未来へのエネルギー漏洩を防ぐ!カギは刹那の認識
ということでブログをお届けしました。
ではまた。