こんにちわ。
本日は学者の著作の読み方について
ブログを書かせていただきます。
参考書籍:「意識と本質」
井筒俊彦著

今日はこちらの本について
のブログです。
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井筒 俊彦(いづつ としひこ、1914年(大正3年)5月4日 -
1993年(平成5年)1月7日)は、日本の言語学者、
イスラーム学者、東洋思想研究者、神秘主義哲学者。
慶應義塾大学名誉教授。文学博士、エラノス会議メンバー、
日本学士院会員。語学の天才と称され、大部分の著作が
英文で書かれていることもあり、日本国内でよりも、欧米に
おいて高く評価されている[1]。
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こちらの本の題名は
意識と本質。
人間の意識が
本質という次元を超え、
五感では感知できない領域のものに対して
意識がどのようにかかわれるのか、
これをこれまで
東洋の哲学者たちがどのように
捉えて、解釈してきたのか。が書かれています。
実はまだ読み始めた
ばかりでまだ全容はわかりません。
40頁ほど読み進めた
ところまでで、特筆すべきは
国学者本居宣長の考え方についてです。
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本居 宣長(もとおり のりなが、享保15年5月7日(1730年6月21日)
- 享和元年9月29日(1801年11月5日))は、江戸時代の国学者
(文献学・言語学)、医師。名は栄貞。本姓は平氏。
通称は、はじめ弥四郎、のち健蔵。号は芝蘭、瞬庵、春庵。
自宅の鈴屋(すずのや)[3]にて門人を集め講義をしたことから鈴屋大人
(すずのやのうし)と呼ばれた。また、荷田春満、賀茂真淵、平田篤胤と
ともに「国学の四大人(しうし)」の一人とされる[4]。伊勢松坂の
豪商・小津家の出身である。
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この本の中で、
宣長は中国が本質を理解するときに
概念的な把握方法に痛烈な批判を
加えていること、
また、日本人の「もののあわれ」を
尊び、概念的ではなく、直にその感動した
対象に触れることで個物を外側からでは
なく内側から理解するという
日本人のアプローチがまさしく正解との
立場をとっていて、
それについて著者の見解などが
述べられていました。
今回のブログでは
本の中身というよりも
こういった学者の方が書かれた
本をどう読み進めていったらいいか
私の思うところを話してみたいです。
学者の方が書かれた本は
情報量はとにかく多いと思います。
特に今回の井筒教授は
東洋やイスラムに大変精通した
哲学者であり、言語学者
であります。
そのため、いままで、どういった学者が
どういった学説を唱えていたか
どう批判されたか、とか
そのあたりの知識量が半端なく
多いわけで、それはそれで非常に興味深く読めます。
先ほどの本居宣長の主張はどうで
あったかとか、多方面の情報が一挙に
書かれているので、読み手の視野も
広がり、次に読みたい本などへも
興味が飛んでいくので
それはそれでお得です。
ただ注意したいのは
あまりにもいろいろな人たちの
主義、主張を述べているので
収拾がつかなくなっているような
、読み終わった後に結局この本の結論は
どうであったのか、と
首をかしげてしまうような
本があるのも確かです。
そのあたりは実践者の書いた著作は
なんといっても結論がしっかり書かれていて
理解しやすいのは確かです。
自分が経験し、極めたことを
ストレートに教えてくれているので
明快です。
今回の本がこの後の展開で
どうなっていくのかはまだわかりません。
でも、今回のように
意識と本質というビックテーマについて
は様々な角度からの検証が不可欠ですから、
私の視野を大きく広げてくれるで
あろうことに胸躍らせて、
読み進めてみようと思います。
本日は「意識と本質」井筒俊彦 著を読む。学者の著作を読むときの留意事項についての私見
ということでブログをお届けしました。
ではまた。