反戦という想いで凝り固まっている私ですが、実は、血の

気の多い人間だとも思っています。自分の中にある激情は、

極力抑えるようにしています。以前も少し触れたような気が

しますが、激情が爆発した時に、何も見えなくなるのです。

 それは小学生時代に顕著でした。あまり、私が暴力的で

なかったのは、単に腕力が弱かったからです。ただ、相撲

は弱くありませんでした。座高が高く足が短くて、腰の安定

した体型だったからです。

 中学生になると、感情より理性を優先することが、大人の

基本だと知りました。感情の抑え方も、少しずつ学ぶように

なりました。もちろん、迸る激情に身を任すこともありました

が、あまり表には出さないようにしていました。


 それでも、家族や友人に激情をぶつける場面がなかった

わけではありません。そのようなときは、理屈は疎かになり

ながらも、過剰な憤懣をぶちまけてしまうのです。

 その後は、いつも後悔でした。仕方なく関係の修復を図る

のですが、友人の中には、最後まで修復できなかった人も

います。その点、家族とは有り難いものです。ただ、家族間

の事件もないわけではありませんが。


 このような激情の代償行為になるのでしょうか?私は戦い

のあるドラマが好きです。プロレスもそうですが、ほとんどの

ドラマの演出では、まず主人公に危機が訪れます。そこに、

思わぬ援軍が現れて、最後は主人公が勝つのです。

 私の心などは、プロの演出家にとっては容易に操れるよう

です。私は、単純にハラハラしながら、最後に笑うのです。

そこで、多くの人命が失われていることに、想いを致すことは

ありません。何故か爽快感が残るのです。


 これが実話だと、私の反応は全く異なってきます。戦うこと

が、いかに虚しいことであるかなどと、私は、嘆いたり悲しん

だりするばかりなのです。反戦の感覚が唸るのです。

 この矛盾する感覚は、どちらも私のものに違いありません。

幼き日の感情と理性の対峙が、半世紀も続いているのです。

このことが、私の、戦争を懼れる理由にもなっています。