愚痴2018.10.21

テーマ:

あまり愚痴らないタイプだと、自分では思い込んでいましたが、ちょっと溜息とともに哀しい想いが込み上げてきたので、ここで、遠慮がちではありますが、少し愚痴らせてください。それなら、堂々と表題に書き込むなという声が聞こえてきそうですが。

 

本来なら今頃は、ワグナーのマイスタージンガー前奏曲とベートーヴェン「運命」第一楽章の練習で疲れた心身を労(いた)わりながら、花巻駅に向かって充実感に満ちた足取りで歩いているところだと思います。そこから新幹線を乗り継いで、今日の夜、帰宅するのが、東北農民管弦楽団の練習日です。

ところが、その貴重な一日をドタキャンして、関西から抜け出せなかったのが、この愚痴の素になっています。うまく弾くことが出来ないので、練習日が大きなストレスになっていることも事実です。けれども、すべてのことに言えることだと思いますが、上達するためには苦労する時間が必要だと思います。特に、私のように不器用な人間は、実力の不足している部分を、時間をかけることによって補うしかありません。

 

このところ、私の時間を奪う雑用が闊歩しています。それはそれで必要なことなので仕方がないのですが、心地よいストレスを味わえないことは、別の悪質なストレスを生むようです。そのストレスを解消するには、こうして愚痴るしかないような気がしました。安易な方法ではありますが、やってみると意外に落ち着くものです。

愚痴なんて聞きたくもないものだとは思いますが、どうか「人助け」だと思ってお許しください。

 

さて、少し気分が軽くなったので、ラトルの解説付きの「運命」を聴いてみます。

[ご参考] ラトル指揮ウィーンフィルの運命です。

https://www.youtube.com/watch?v=eSoIl5NYa8o

 

雑事2018.10.13

テーマ:

雑事という言葉は便利だと、つくづく思います。「雑事に紛れて」も、ずいぶんお世話になった常套句ですが、何となく、免罪符のように使ってきました。その罰が当たったのかもしれませんが、今、かなりの雑事攻めに遭っています。本職とは遠いことなのですが、何しろ小説家というものは、身の回りの全てが取材になってしまうので、今は、取材中ということにしておきたいと思います。

 

というわけで、何がそんなに忙しいのかを詳(つまび)らかにしないまま、ここしばらくは、ブログ放置の状態が続きそうです。

反戦小説⑥

テーマ:

「野蛮なことが日常になる」のが、戦争の最大の罪ではないかと、私は考えています。そして、だからこそ私は、戦争を忌み嫌い、例え「平和」を口実にしたとしても、その野蛮な状態を作ってしまう戦争を認めることが出来ないのです。そのことを事実として示してくれるのが、「バターン 死の行進」だと思います。

太平洋戦争のさなか、フィリピンにおいて、予想を遥かに超える捕虜を移送する際に生じた「地獄模様」は、多少悪意の兵士もいたとは思いますが、大半の指導者・将校・兵士たちは善意の人だったようです。けれども、極限の状況の中で、なお平時と同じ精神状況を保持できる人は少なかったようです。そして、結果として、理不尽な出来事が多発してしまいました。

 

この種の出来事は、ホロコーストや南京大虐殺のように、事実が誇張されて伝わっていると見る人もいます。それは、恐らく正しい見方でしょう。けれども、だからと言って、その事実がなかったと言い切ることは出来ないと思います。多少の誇張はあるけれども、そのような出来事があったと考えるのが、妥当なのではないでしょうか。

歴史的事実を追い求めるなら、個々の事実関係を詮索する必要もあるでしょう。ただ、「戦争が野蛮を導く」という哀しい現実を否定することは出来ないような気がします。その意味で、それは戦争というものを考える際に、忘れてはならないことだと思うのです。つまり、私の「戦争嫌い」は、これから先(あまり長くないでしょうから)も続くに違いありません。

 

そこで、自分の文学の中に、どうしても反戦小説が欲しいと思ってしまうのですが、戦争体験のない私には、具体的に、戦場や戦闘の描写をする自信がありません。小説や映画では、このような場面に、むしろ「イヤ」と言うほど接してきていますが、自分で描写するとなると、生身の体験が必要だと思ってしまうのです。

ただ、だからと言って、実際に戦争を体験することは、「戦争嫌い」の人間には苦痛です。平和な日本を享受したいという想いが強いことから、戦場を求めて諸外国に飛び出すことも出来ません。そこで、残念ではありますが、私の反戦小説は、戦場や戦闘から逃避したところで「勝負」することになります。

 

それでも、意味のある小説が書けるだろうかと自問自答してみました。その答えを、この小説の中で見つけなければなりません。

創作予定2018.10.4

テーマ:

小学生の頃、日課を中心に夏休みの計画を立て、それだけで満足していた私。いつも実行は最後の三日ほど。急場をしのぐ火事場の「くそ力」。計画好きで中身が伴わないのは、不言実行とは正反対の有言不実行。それが多分、私の本質。自己改革をするなら、まず、この点から始めなくては。

そう思い続けておきながら、創作予定を立てることの、いかに楽しいことでしょうか。「捕らぬ狸の皮算用」は、結局は何の足しにもならないことは分かっているのですが、それ自体が楽しいので「やめられない」のです。そして、今が、その法悦のとき。

 

私の一番円熟している時期(あと三年後あたりでしょうか?)は、このブログでも冒頭部分を転載したことがある大河小説「いざデルフォイのもとに」に捧げなければなりません。この作品に本格着手する前に、これまで書き溜めている中途半端な小説を、それぞれ形にしなければならないのですが、その順番が問題です。

あるきっかけを与えてくださった方がおられて、とても嬉しいヒントをいただきましたので゛、これもブログで途中まで書いていた「バックハウスのミスタッチ」を、大幅に改作しようと思っています。改作と言えば、もう一つ、これはメルマガで書いていたのですが、「私が訴えない理由(わけ)」も改作が急がれます。

どちらも、私が小説の書き方を間違って考えていた(書き流していた)頃の作品なので、短くまとめて、引き締まった作品に書き直そうと思っているところです。どちらも数か月は掛かると思いますが、かなり煮詰まっている小品が溜まっているので、大急ぎで書きあげなければなりません。

小品と言っても、新人賞などに応募するつもりの作品ですから、いずれも三百枚(四百字詰め原稿用紙)程度は書くことになると思われます。後、最近思い付いたばかりの反戦小説と、「火葬志願」(ほんの数日前に思い付きました)という奇妙な小説も早く世に出たいと叫び声をあげています。

 

そのようなわけで、相変わらず「忙しい」と思いながら、無為な時間を過ごしてしまう自分に呆れる毎日を過ごしています。けれども、今、一番気になっているのは、週末に来るかもしれない台風なのですが。

脱稿2018.9.30

テーマ:

たった今、星新一賞に応募しました。「原則、電子ファイルのみ受け付けます」ということなので、必要事項を記入して原稿を貼付すれば、あとは、クリック一つです。私の目指す小説とは程遠い、短編ではありますが、ほとんど「賞罰なし」で人生を過ごしてきた私にとって、比較的大きなイベントであることに間違いはありません。ですから、それなりの努力を払ったという実感はあります。

ただ、ほとんどの「賞」がそうであるように、受賞するための努力は、必要条件でも十分条件でもありません。審査員の琴線に触れることが出来るかどうかということだけが、受賞の必要十分条件なのです。つまり、ここから先に私の出番はありません。宝くじを一枚手に持っているといった心境です。去年は「ハズレ」くじでしたが。

 

「果報は寝て待て」というようですが、やらねばならないことをやっていない私に寝ている時間はありません。構ってほしいと言っている小説の卵たちが、列をなしてお待ちになっています。動けるエネルギーが満ちている間に、これらを世に送り出してやらねばなりません。

こうして、自分を励ましているのですが、今日一日くらいは、少しゆっくりしたいと思います。

 

皆様、ご無事で台風一過となりますように。

 

破綻(はたん)のあと

テーマ:

いろいろな場面で破綻しながらも、慌しい合宿を終えて、ようやく日常が戻ってくるかと思いきや、依然(いぜん)として私は非日常の中にいます。本当は、この状態こそ日常であるべきなのに、これを非日常と言わなければならないところに、追い詰められているはずの私が、本当の意味での真剣さが足りないと言われ続けてきた根本が潜んでいるような気がします。いずれにしても、この非日常は、本来あるべき私の姿だと思うので、頑張るしかありません。

 

ここまで、私のブログを読んでくださっている方にはお分かりのことだと思いますが、案の定、私は今、大急ぎで推敲している星新一賞の応募作品を完成させるため、ラストスパートをかけているところです。なかなかの名作だと自画自賛したいところですが、何しろ、まだ形が出来ていませんので、あと五日ほどの努力が、すべてを握っているのです。

一万字の短編ですから、空白を埋めるだけなら時間はかかりません。ただ、話を面白くするには、それなりの演出も必要になってきます。すると、字数制限が、かなり重荷にもなるのです。賞に応募する者は、とても弱い立場なので、主催者がお決めになっていることは厳守しなければ゛なりません。そこを乗り超えなければ、世に出る道は塞がれたままです。

 

そのような訳(わけ)で、今から再び創作のカオスに飛び込みます。

破綻(はたん)

テーマ:

すべては自業自得なのですが、どうやら私の計画は破綻してしまっているような気がします。今月中に、完璧(かんぺき)な形で仕上げなければならない星新一賞の応募作品を抱えながら、今から花巻に向けて出発します。そして、明朝に催されるイベントに参加した後、明日・明後日と東北農民管弦楽団の合宿に参加します。

そのための荷造りを、今朝から慌ててやっているのですが、弓遣いを記載した楽譜がネットで送られてきていることを思い出し、楽譜に記入したところです。急ぎの仕事はヌケが多いと言いますが、それでなくともミスの多い私が、正確に写せているとは思えません。それに、必要な楽譜が揃っているかについても不安があります。でも、メールを検索して確認している時間がありません。

今、私に残された時間は、12時までの2時間余りなのです。地元で知人と食事をした後、新大阪に向いますが、新幹線を乗り継いで、今日宿泊する北上のビジネスホテルにつくのは、かなり夜遅くなると覚悟しています。バタバタするのは、サラリーマン時代からキライではありませんが、最近は柔軟性が衰えてきたのか、何となく不安に駆られます。

 

このような状態でも、まだ、充分に練れていない小説に手を抜くことは出来ないので、この記事を書いた後は創作に専念します。出張で用意したものにヌケがあったとしても、もう、臨機応変に対応するしかありません。ここまでです。割り切りました。まさに破綻ですが、責任は自分で取らねばなりません。

重たくなる荷物の中に、韓国語の教科書を一冊だけ入れました。新幹線の往復で勉強しようと思うからですが、今までの経験上、乗っている時間の五分の一も集中して勉強できません。それでも持っていくのは、お守りのようなものだからでしょう。

 

では、創作を始めます。帰宅は明後日の夜遅くになる予定です。秋の東北は、とても魅力的なのに、どこにも寄ることが出来ません。これも自業自得です。あらかじめ、何事も余裕をもって実践しておれば、ゆったりとした旅を楽しめただろうにと思うと、少し自分が恨めしくなります。でも、そんな自分と70年も連れ添ってきたのですから、今更文句を言うわけにもいきません。

 

ご心配なく。破綻には馴れています。

まことに残酷で哀しいことですが、70歳の記憶とは、せっかくの貴重だった自分の人生を、まったく朧気(おぼろげ)にしてしまうものです。忘却は、時には人間にとって、ありがたい救いになることもありますが、大かたは理不尽なことのように思えます。これほどパソコンが必要なものになるというのも、人間の加齢による、あるいは加齢とは関係のないものも含めて、忘れるというマイナスを補いたいからに違いありません。

ですから、忘れるという人間固有の特性を、まるで病気であるかのように捉えることは、ごく稀(まれ)な場合を除き、間違いであると、私のように強がることも出来るのではないかと思います。もっとも、それは最近、特に物忘れやミスが多くなった自分を、認知症だと思いたくない一心(いっしん)で、私が強弁しているだけのことだとは思います。それなら、むしろ「一億総認知症」だと、皆を仲間にしてしまった方が「可愛い」に違いありません。

ただ、これだけは抗弁しておかなければなりませんが、忘れてしまったことであっても、大切な物事の本質は覚えているということです。周辺事情については、ほとんど何も思い出すことが出来なくなっていても、要諦(ようてい=物事の肝心なところ[コトバンクより])を忘れることはありません。これは事実です。

 

その意味では、この記憶も、まったく不鮮明になってしまいました。「戦術と戦略は違うのだよ」。私が若い頃に、そのようなことを誰かから教わったたことです。学生時代に親しかった先生からか、サラリーマンになって間もない頃の先輩からか、今となっては、まったく定かではありません。けれども、言葉の意味は、すっかり自分のものになっていると思っています。

教えてくれた人の意図や一般的な理解がどのようなものなのか、あまり気にしたことはないのですが、wikipedia の書きぶりをご参照ください。

[ご参考①] 「戦略」の wikipedia です。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%A6%E7%95%A5

[ご参考②] 「戦術」の wikipedia です。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%A6%E8%A1%93

 

さて次回は、私が理解している「戦略と戦術」の違いから始めます。

最近、自分が過ごしている現在の生活について、その立ち位置を人生の終盤と捉えた記事を書いていたので、「ラストスパート」との表題を、大きな意味で捉えることが出来るかもしれません。けれども、これからここで書こうとしていることは、もっと卑近な、この二週間のことなのです。

そうです。スロースターターの私は、いかにも私らしく、これから10月1日〆切の星新一賞に向けて、新たな創作の冒険に出ます。一万字という字数制限があるとので、量的には、それほど負荷がかかるわけではありませんが、短編には短編の苦労があるので、引き締まった小説を書くには骨が折れるのです。それで、周到な準備が必要だと考えていました。決して無計画ではないのです。

 

9月中旬までにコツコツと書き進めて、あとの二週間は「てにおは」の推敲のみにしようと、これも、いつものように目論んでいたのですが、やはり、いつものようにほとんど何も準備できないまま、今日を迎えてしまいました。実のところ私は、計画を立てるのが好きです。ところが、これには穴があります。計画を立てただけで出来たように思ってしまい、手を抜いてしまうところが致命的なのです。

去年、応募をした時も、最後の追い込みで時間がなく、とても困ったのですが、今年も結局こうなりました。望みを託すのは、瞬発力に頼るラストスパートです。思えば、小学校での夏休みの宿題に始まり、中学や高校の中間・期末テスト、そして二浪もしてしまった受験勉強に至るで、私の人生はラストスパートに暮れていました。裏を返せば、ラストスパートの時期以外では、怠けまくっていたということになります。

 

ですから、「いつか来た道」ではありませんが、よく見たことのある景色です。狎(な)れています。だから脱却できないのだということが分かっているのに、怠惰な生活の底に沈んでしまうのです。ともあれ、覚醒しなければなりません。ラストスパートの力を借りてでも、いい作品を生み出さなくてはなりません。

 

ブログは、少し滞るかもしれません。お許しください。

 

 

[お詫び]最近、あらゆる場面で不注意なことを見過ごすことが増えてきました。誤変換を見逃すことも、その内の一つで、昨日の記事にもありました。最後から二行目の「不幸性」は「不公正」です。訂正しておきましたが、文筆を生業(なりわい)にしたいと、いやしくも願っているなら、あってはならないことです。まことに、申し訳ありませんでした。再発防止のために、これといった妙策が浮かばないのは困ったことですが、丁寧に読み直しするしかありません。

 

さて、昨日の「キリンビールを無料でご馳走になることにより、私の心の中に負い目が出来る」などと書いた記事に、コメントをいただきました。「そこまでは考えなくて良いのでは?」とのご趣旨で、「隣近所からの貰った事案とは別次元の捉え方で」いいのではないかとのご指摘です。なるほどと思いました。

考え過ぎは、私にはよくあることで、事を難しくしてしまうことがあります。そう言えばサラリーマン時代に、ある人から「マッチポンプ」と言われたことがあります。wikipedia では、自作自演という意味だとなっていますが、この時は、「自分で事を大きくしておいて、その後始末に追われている」という意味で言われたのだと思っています。

[ご参考] 「マッチポンプ」のwikipedia です。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%83%E3%83%81%E3%83%9D%E3%83%B3%E3%83%97

 

その意味では、「政治において不公正があってはなりません。そこで、制度として、不公正がありえない仕組みを作る必要がある」との発言も、ビール工場の見学から導き出すには、少々無理筋だったのかもしれません。日頃思っていることが、ついつい思い浮んでしまうのです。

そのついでに、と言うと「悪乗りだ」と言われそうですが、そもそも、この記事を書いた目的地点まで行き着くことをお許しいただけるなら、支配の本質と贈与ということについて考えてみたいのです。突飛な話の展開をお許しください。

昔の王侯貴族も、「振舞い」ということがあったように思います。「振舞い」の派手な人ほど、衆人の支持や尊敬を集めたのではないでしょうか。人が人を支配するというメカニズムは、諸悪の根源でありながら、それを望む気持ちが支配者にも被支配者にもあるので、とても難しいテーマです。

けれども、それは私の文学にとって最も重要なテーマでもあるので、これからも深く考えていきたいと思っています。ビールなどで酔っていても、これだけは常に私の座右にあるのです。