他人の評価を、自分の中でどのように評価するのかには、

とても個人差があるように思います。まるで気にしない人も

いれば、他人の評価が生きる基準になっている人もいます。

 ところが、よくよく考えてみると、他人の評価には、当って

いることと当たっていないことがあります。また、有益なもの

と有害なものもあります。実際、一口に他人の評価と言って

も、多種多様なものなのです。


 「他人」を考えてみても、自分以外の全ての人を思い浮べ

ることもあるでしょう。あるいは、家族や友人など、知り合い

は除いて、見ず知らずの人だけを「他人」と考えることもあり

ます。

 「評価」にも色々なイメージがあります。評価の方法として

は、絶対評価と相対評価があります。また、評価の対象も、

人格、能力、資質、実績などがあります。


 誰から、どのようなことについて、どのような場面で、どの

ように評価されるかによって、他人の評価を受ける態度は、

ずいぶん変わるものです。これは、私自身の、他人の評価

への対応を振り返れば容易に理解できます。

 日頃から気に入らない人の評価には、私なら内容も見る

ことなく反発してしまいそうです。逆に、敬愛してやまない

親友の評価なら、ほとんど無条件で、受け容れてしまうに

違いありません。


 つまり、他人の評価への態度は、自分の心の持ちように

よって、受容度が変わってしまうのです。それは結局、他人

の評価を、自分のものとして咀嚼しているのと同じです。

 結局、人間は他人の言葉も、自分の言葉としてしか理解

できないのです。それなら、一つの情報として他人の評価

に耳を傾けることが、自分を広げる手段となると考えるのが

良さそうに思えます。

 そのように考えると、政治家や教育者や経営者が、他人

の評価を気にしているのも、必ずしも、非難すべきことでは

ないようです。ただ、その評価が、本質からずれていること

が見抜けないなら、そのことを非難すべきなのです。