私が、ブログ記事を再開する条件として、自分に課した

のは、自己変革することでした。わずか三週間で、これが

達成されるはずがありません。それなのに私は、さっさと、

再開を決めてしまったのです。

 この動機について、しっかりとした説明ができないなら、

中途半端な答弁でその場逃れする政治家と何も変わら

ないと思いました。その意味で、この記事は自分のため

のものです。


 さて、自己変革をしなければと私が考えたのは、自分

の愚かさに気づいたからです。自分が成長するためには、

何かを変えなければならないと思いました。

 ただ、そこには具体性がありません。何を、どのように

変えるのかという、自己変革するための、肝心の中味が

曖昧なままの決心だったのです。

 その意味では、スタート地点より手前からの出発でした。

私の足らないところを探さねばなりません。漫画ではあり

ませんが、これは、とても難しい作業でした。


 つまり、よくよく自分を振り返ってみると、足らないところ

が見つからないのではなく、足らないところばかりだった

のです。これでは、手の打ちようがありません。

 それで、私は足らないことの源流を辿るしかありません

でした。そして、とうとう見つけたのです。上流では、毒が

流されていました。ですから、私の自己変革は、その毒

を取り除くことだと気づきました。


 私の毒とは、甘えです。これが、私の人格の底に流れ、

私の人生そのものを支配していました。私の自己変革と

は、甘えの払拭でもあるのです。

 私の、ブログにおける甘えとは、小説を創作する態度に

おける甘えと同じです。つまり、想いの断片を集めるばか

りで、成し遂げることからは逃げていたのです。

 未完の記事が残ったり、シンポジウムや読書の記録が

中途半端なことも、この甘えが原因でした。ダ・ヴィンチに

未完の作品が多いことや、ベートーヴェンの「下書帖」は、

甘えのための言い訳に過ぎませんでした。

 それが、リニューアルする記事のスタンスを、文学作品

と位置づけた理由でもあります。逃げ込む空間をなくして、

ブログ記事と厳しく対峙したいと思ったのです。そのことが、

私の自己変革の実践になるのです。


 ブログのリニューアルをお知らせした記事で、私は何か

舌足らずになっているように感じていました。恐らく、私の

自己変革についての想いが、充分に語れなかったためで

あることから、この記事を追記させていただきました。