自然の中でも、郷土の景色はずっと脳裏に刻まれたまま、
揺籃のように温かい空間として心に残ります。郷土愛は、誰
から強制されることもなく、自然に生まれる感情です。
考えてみれば不思議なことなのですが、この想いは、心の
中に深く刻み込まれるものです。それは、私のような郷土に
住むことができない者でも、生涯同じ場所に住んでいる人と、
まったく遜色のない想いだと思っています。
人間には、過去を懐かしむという想いがあります。長い間、
私は郷土愛をこのような過去を懐かしむ心だとばかり思って
いました。けれども、今は、少し違うように感じています。
懐かしむということは、どうも、現実から離れることのような
気がしてしまいます。センチメンタルが現実逃避と言われる
ように、私は郷土愛を、一種のセンチメンタルのようなものと
して考えてしまったのです。
けれども、郷土愛とは、間違いなくセンチメンタルとは無縁
な、現実の感情だと思うようになりました。私が、そのことに
気付いたのは、その感情を湧き立たせる泉の存在です。
もちろん、過去を懐かしむ感情が、湧き出る泉もあります。
それは、済んでしまったことばかりを集めた、過去の世界に
ある泉から溢れてくるものです。
過去の世界ですから、懐かしむ想いには、現実への影響
はありません。それは、生活の余裕の中から、一つの薬味
として愉しむものでもあります。
ところが、郷土愛は過去のものではなく、懐かしむもので
もありません。そのことに私が気付いたのは、この一年ほど、
私の郷土である京都の街を散策したからでした。
確かに、センチメンタルな想いもあることは事実です。昔の
自分が、隣にいるような幻影に、何とも言えない懐かしさを
覚えながら、一歩一歩、郷土を踏みしめるのですから。
それでも、郷土は現実のものとして、今、自分の中に存在
していることを強く意識します。郷土愛とは、この現実自体
への愛そのものです。想い出は、この愛を飾るコサージュの
ようなものだと思うのです。