幸福と不幸の関係は、善と悪の関係と似ているような気が

します。幸福感と正義感とは、あまり関係がありませんが、

どちらも多様な価値観があります。同じことでも、人によって

受け止め形が違うのです。


 「悪は善の欠如」。これはトマス・アクィナスが主張したこと

です。彼を批判する人たちは、この言葉を「現実逃避の楽観

主義(オプティミズム)にすぎない」としています。

 彼らは、悪を善の不存在とするのは、「人々に襲い掛かり、

絶望へと誘う災害や苦難、自らの内なる善・悪の葛藤から

生まれる罪悪感の深刻さ、などの悪に直面していない。」と

批判しているのです。


 けれども、そこには誤解があるようです。その真意は、悪が

存在しないというのは、悪が「善に寄生し、当の善を、いわば

空虚化している」ということにあるそうです。

 「つまり悪は、自分がとりつき、蝕み、空虚化する善があって

はじめて存在するのであって、それ自体としては存在しない」

というのがトマスの定義だというのです。(以上の「」は、稲垣

良典「トマス・アクィナス『神学大全』」講談社 より引用)




 私は、この理屈が、そのまま幸福と不幸にも、当てはまるの

ではないかと思っているのです。つまり不幸とは、幸福が欠け

たものであり、不幸というもの自体は存在しないのではないか

と思っているのです。

 実際、人間が不幸を実感するのは、自分が「幸福でない」と

思うときが一番多いのではないでしょうか。ほとんどの人間は、

ずっと幸福を求めているのだと思います。

 私は、その幸福が得られない時、人間は不幸を感じるのだ

と思います。つまり不幸は、自分が求め、ひたすら奮闘精進し、

それでも空虚化する幸福があって、はじめて存在するものだと

思っているのです。