私が尊敬する天邪鬼精神の師匠に言わせると、天邪鬼の
神髄は公平感とバランス感覚にあるそうです。つまり、世の
中の風潮が右に行くと逆方向の左にハンドルを切り、左に
行くと右に切ることを、天邪鬼は目指しているらしいのです。
天邪鬼の技の冴えは、この世の中の傾向を見抜く嗅覚に
あるそうです。けれども、曇りガラスのような眼を通して世の
中を見ている私には、師匠のような透視力やバランス感覚は、
とても望めそうにはありません。
それでも私は、風の流れのままになりがちな潮目を、本流
に戻す努力には憧れを持っています。それで、いつも的外れ
な真似事をしては、滑稽がられるのを常としているのです。
しかも、それてせも懲りずに、同じ間違いを何度も繰り返す
のが、私の至らないところです。むしろ、失敗を懼れないこと
に誇りまで感じているのです。これはもう、無神経なピエロと
しか言いようがないようです。
その意味では、愚かさに屋上屋を重ねてしまうことになるの
ですが、これだけ脱原発、反原発の風が強くなると、ちょっと
原発を擁護したくなるのです。つまり、世間の風に逆らって、
原発の応援をしようというのです。
何しろ、発電量に比べて原料費がわずかです。しかもCO₂
の排出もないのです。まさに、これこそ夢のエネルギーでは
ありませんか。これを、このまま封印してしまうことは、まこと
にもったいないことだと思います。
もちろん、どれだけ私が天邪鬼であったとしても、福島原発
の事故を考えると、足がすくんでしまいます。放射能の垂れ
流しは、何よりも避けなければならないことです。
そのためには、嘘で塗り固められた原子力の安全神話を、
科学の力で真実にする必要があります。このための努力こそ、
エゴイズムの丸出しで地に堕ちた政治家や科学者が、真摯
に血と汗を流さなければならないことだと思うのです。
安全神話が真実となるまでは、原発が動かなくても我慢が
必要です。原発事故の元凶と言われている原子力村の人々
の、原発稼働に懸ける想いが本物なら、きっと難しい問題も
解決してくれると信じたいのです。
もちろん公正で厳しいチェックは不可欠です。ただ、科学が
人類にもたらしてきた多くの功績を考えると、もう一度、科学
に期待してもいいのではないかと思うのです。これまでも、
科学は悲劇や不幸を克服してきたのですから。