キーパーソンを学ぶことにより、歴史の全体像を把握する
と、すべてのことがわかたような錯覚に囚われてしまいます。
私は今では、そこに知識の落とし穴があるように思うように
なりました。
その疑問は、現代のキーパーソンを考えていて思ったこと
です。オバマ氏やプーチン氏だけで、現代を語ることはでき
ません。ゲイツ氏やジョブズ氏だけでも、ごく一部のことしか
現代を語ることはできません。
キーパーソンの存在は否定しませんが、時代を語るには、
数名のキーパーソンを語るだけでは不十分なのです。政治
や経済が歴史の主流だと考えるのは、誤りではないかとの
問題意識が、その疑問の底にあります。
世の中には無数の人生があります。時代とは、その総和
であるはずです。それを、わずかな象徴的事実だけで説明
しようとしているところに、歴史の虚構性が見えてしまいます。
確かに、二十世紀以降は個性が大切にされる時代なので、
一人の人間が時代の代表となる意味が、薄れているのかも
しれません。けれども、それは歴史を遡っても同じではないか
とも思えるのです。
アレキサンダー大王やナポレオンは、歴史に大きな足跡を
残したかもしれませんが、過去を語るということは、彼らを語る
ことだけではないように思えるのです。
もちろん、だからと言って過去のキーパーソンの重要性が
なくなるわけではありません。彼らの業績や影響を考える
だけで、歴史を理解したと満足している自分に対する戒め
として、はっきりと自覚しておきたいと思ったのです。