1914.8.31


 この日、ロランは、「ある国際委員会の最初の会合」に

出席するため、ジュネーヴに赴きました。スイス旅行中に

戦争になったため、ロランは、スイスに留まらざるを得なく

なったようなのです。

 これは憶測ですが、ジュネーヴで赤十字国際委員会の

戦時俘虜事務局で働くことになるロランの、最初の活動

が、この日の会合だったと思われます。


 これには、「ジュルナル・ド・ジュネーヴ」紙の主筆代理

だったセーペルが、同紙の主幹となり、ロランを招聘した

ようです。

 ただ、このときは、ジュネーヴの14人の中に加わった

ただ一人の外国人ということで、ロランはあまり発言でき

なかったようです。


 それでも、ロランはスイスの地名の士に対して憤りを感じ

ていました。つまり彼らは、二つの心配にびくびくしていた

にもかかわらず、結論を急いではならないと様子見に徹し

ていたからです。

 二つの心配とは、「スイスに対してドイツの怨恨と侵入と

を招きはしないか」ということと、もっと立派な心配、つまり

「フランス系スイスとドイツ系スイスとの離間を深刻にしはし

ないか」との心配です。


 ロランとセーブルは会合が終わった後、ドイツによる蛮行

(ベルギーのルーヴェン破壊)に抗議するための活動計画

を練るのです。

 ささやかなロランの抵抗は、「ハウプトマンへの手紙」を

会議中に読み上げたことでした。これは、前回にも触れた

公開状のことです。

 そして、翌9月1日に「ジュルナル・ド・ジュネーヴ」紙、

2日には「ラ・トリビューヌ・ド・ローザンヌ」紙に、この文が

発表されたのです。けれども、ドイツ系スイスの新聞は、

無視するか歪めた形でしか掲載しませんでした。

 

[ご参考] ルーヴェン市のWikipediaです。第一次世界大戦の破壊

      も、少し記載されています。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%B3