よく思うのですが、いつも時の流れが同じスピードだと

いうのは、まったくの幻想だと思うのです。時の流れが

一定方向だというのも、実感が湧いてきません。

 それでも、水の流れを時の流れにした水時計や、砂が

落ちるのを利用して作った砂時計などがあります。これは

時の流れに変化がないことを前提として作られています。

 ゼンマイ時計や電子時計も同じ理屈です。これら時間を

計る道具は、暦を基準にしています。つまり、天体の動き

を利用しているのです。古くから日時計が発達したのも、

このためだと思います。


 暦には、いろいろ誤差のようなものもあります。けれども、

ここでは細かいことには目を瞑ります。私が不思議に思う

のは、正確な時間の刻みに比べて、あまりにも私の実感

違っていることです。

 つまり、私の実感では、時の流れは決して一定などでは

なく、早くなったり遅くなったりしているように思うのです。

楽しい時間はすぐに去り、悲しい時間は引きずっているよう

に思うのは、私の錯覚なのでしょうか?

 時間が一定でないと感じる人は、どうやら私だけではない

ようです。莫大な未来が広がる子供たちは、時間の進み方

を遅いと思い、莫大な過去を積み上げてきた老人は、時間

が早く進むと感じるようなのです。


 考えてみれば、時の流れは目に見えません。雑念を払う

と、鼓動だけが聞こえてきます。これだけが、時を計る手段

だとするなら、心身の動きによって時の流れは変化すること

になってしまいます。

 このように、私たちが時間を、一定の速さで進むと思って

いるのは、暦や時計などがあるからであり、一つの虚構に

すぎないのです。


 それでは、時は実際、どのように流れているのでしょう?

それは、時の流れが規則正しいのか、不規則なのかという

問題です。どちらかが錯覚であるはずです。

 結局私は、このことは、時の流れをどのように区切るかと

いうことだと思います。だから理屈では、それは規則正しい

ものだと言わざるを得ないと思うのです。今の時間は、暦に

従って決められているのですから。

 ただ、夭折した天才たちが、その与えられた短い時間に、

信じられないほどの業績を遺していることに想いを寄せると、

やはり、時の流れの規則性には疑問を持ってしまうのです。