「節目」とは、曖昧で良いものをわざわざ創り出すことである | 坪井秀樹の起業実験日記 いくつになっても「理由なき反抗期」

坪井秀樹の起業実験日記 いくつになっても「理由なき反抗期」

反抗しているんじゃない。反抗期が続いているだけなのさ。

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日が沈むのは、あまりに日常で当たり前で、


夜が来れば、暗くなるのも日常すぎて、当たり前で、


その区切り目は、いつもはあまりに普通過ぎて、おぼろで曖昧がゆえ、


非現実的にしてしまうことは可能ではあると思う。



どんなに虚ろで曖昧にしていたことがあったとしても、


しかし、それは確実に刻一刻と現実として目の前に


存在していることもまた確かなのだ。



その認識は、時に残酷に日常の些細な瞬間に目の前に


やってくる。



どんなに誤魔化していても、その現実を認識せねばならない時は


必ずやってくる。



「でももう少し、あと少し・・・・・・。」


願うような気持は、でも、残酷に打ち消される瞬間はやってくる。


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お別れなのか、門出なのか、


嬉しいのか、悲しいのか、


喜びなのか、切なさなのか、


さよならなのか、ありがとうなのか、



喧騒にまみれながら、誤魔化していくことは可能かもしれないけれど、


時として、明確に自分の基点とせねばならない時もある。


わざわざ、ご丁寧にその瞬間を創らないといけない時がある。



私は、そういう意図や行為を「節目」ということだと思っています。




かけがえのない「節目」を体感することができた、今日の京都と、


今日までの月日と、


そして極めてセグメントされ過ぎて他者に説明のつかない関係を持って


しまった君と君達へ・・・・・・・・・、、


感謝を込めて・・・・・・・。





           曖昧は現実、日常は瞬間。


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