障害の理解。千差万別だよね、とわかってるって言いながら、どこか一つでも(教科書や世間にある情報とは)違うからってときに、精神論を唱えるのだけは最悪(な出来事)だ。。

今の時代なんでもググれるけど、自己的解釈や知識は、それは真の・本当の、理解なのだろうか?初手にはありだけど、途中からは知識の入れ替えや、当人からの情報や対話があって、それこそが「理解」という原点であってほしいな(願)

Twitterより。

最近の出来事に対して、想うこと・考えがまとまりました。

「理解」とは、十人十色なので、難しいことではあります。
しかし、少なくとも、私の場合の障害については、病院・仕事・生活(コミニティー)の中で、知り合ったときから、(あらかじめ)わかってる、見た目からの情報が既にある程度ある(伝達している)のです。

なのに、繰り返し繰り返し伝えないといけない壁が立つのは、、(本当にしんどいし、萎えますよ)固定概念が邪魔をしていたり、違うから知ってもらう必要があるのだなと、改めて思い知りもしたし、わかった。
受け入れていく工程ですね。

続けるしかなさそうですが、いつかは「違っていい」という多様性が浸透することを願っています。