渋沢栄一記念館(埼玉県深谷市) 1、2階の踊り場の壁に掛けられていた一枚の写真

 

渋沢栄一「青い目の人形」

 

 

産官学界からすでにリタイアしていた渋沢栄一(当時87歳/91歳没)だったが、アメリカ人宣教師のシドニー・ギューリック博士日米親善活動に共感し、私財を投じてまで行なわれた慈善事業の記者会見の写真です。

 

 

渋沢栄一記念館ではこの一枚の写真についての説明書きがなかったので、見学時はカメラに納めただけでしたが、帰宅後新1万円札の凛とした肖像画と対比すると凄く対照的だったこともあり、「青い目の人形」について当時の時代背景や現在の行方などを調べました。

 

 

地元奈良で現存している「青い目の人形」を探して辿り着いたのが東洋民俗博物館(奈良市あやめ池北)でした。

 

 

 

資料室奥中央の棚に立派なガラスケースに入れられ大切に保管されている

「青い目の人形」を見たときは、大声を出して感動してしまいました。

 

 

 

 

もっと「青い目の人形」について調べようと地元市立図書館に行き、児童書コーナーで見つけたのが、今回のブログタイトルになっているこちらの本です。

 

シャーリー・パレントー作 

河野万里子

青い目の人形物語Ⅰ   青い目の人形物語Ⅱ

(アメリカ編/2015年発行) (日本編/2016年発行)

 

 

地元市立図書館の蔵書は左のアメリカ編のみだったので、右の日本編は生駒市図書館の相互貸借で転送していただきましたm(__)m

 

 

 

この小説「青い目の人形物語」はフィクションであり実際の登場人物は架空なのですが、原作者シャーリー・パレントーの孫娘がひな祭りで日本の着物を着せてもらったことがきっかけで「日本の着物」について調べると約100年前の日米親善人形である「青い目の人形」に辿り着き執筆に至ったのだそうです。

 

 

前編:アメリカ編の主人公は、11歳のレキシ―・ルイス

 

 

 

後編:日本編の主人公は、同じく11歳の田村千代

 

 

表紙絵の少女を描かれたのは、数々の絵本の表紙や挿絵などを描かれている絵本画家の堀川理万子先生

小説の内容にぴったり当てはまった11歳の二人の少女が表紙絵だったのが幸いしてお陰様で脳内アニメーション化することができました。

 

 

 

作品の大部分がフィクションとはいえ、当時の時代背景、歴史登場人物、地名などは実名でアメリカ人作家が書かれた作品だとは思えないほど日本文化についてお調べになられたのがよくわかります。半分フィクション、半分ノンフィクションのセミフィクションというジャンルに位置づけされるだと思いますが、渋沢栄一記念館(埼玉県深谷市)、東洋民俗博物館(奈良市あやめ池北)にて予習をしていたこともあり感情移入するのはさほど難しいことではなくあっという間に前後編約800ページを完読してしまいました。

 

 

 

レキシ―・ルイスにより魂を宿された人形は、「エミリー・グレース」と名付けられ太平洋を渡り、日本にやってきて田村千代と運命の出会いをします。

一度は破壊されてしまった「エミリー・グレース」を甲斐甲斐しく看病し、命懸けで治療(修復)をする千代の勇敢さには単に読者という眺望者に留まらず、千代の親になったようなハラハラドキドキのした気持ちでページをめくりました。

 

 

 

 

 

1927年(昭和2年)3月

ひな祭りに合わせてアメリカより贈られた「青い目の人形」

12,739体のうち現存342体 

2.6%

 

1928年(昭和3年)12月

クリスマスに合わせて日本より贈った「答礼人形」

58体のうち現存47体 

81%

 

 

「敵国のものはすべて排除する」という軍事教育の中、「青い目の人形」を竹やり突いたり、火にかけて燃やしたりしたそうですが、上記に記載した二つの人形の現存率が戦争の結果を表しているかのようです。

 

 

レキシ―「エミリー・グレース」に同封した手紙には、

 

「エミリー・グレースの頬は輝いている

その温かな微笑みが友情を運んでいく

雨のあとの日の光のように」

 

 

 

アメリカ編と日本編を一気に連読してどちらにも登場した手紙なのですが、シャーリー・パレントー作 河野万里子の作品なので、原文はもちろん英語です。

 

 

「雨のあとの日の光のように」

 

まさか「sunlight after the rain」(雨のあとの日光)を訳したのではないと思うのですが、

 

「雨のあと」 ≒ 戦争後

「日の」 ≒ 日本

「光」 ≒ 平和

 

というシークレットメッセージが隠されているのだとしたら、一度原文がどうなのかこの一文だけでも読んでみたいものです。

 

 

 

 

1945年(昭和20年)7月26日 ポツダム宣言の3週間後、8月14日に行われた御前会議にて昭和天皇(当時44歳)のお言葉。

 

「四方の海 皆はらからと思ふ世に 

など波風のたちさわぐらむ」

 

四方の海にある国々は皆兄弟姉妹、

なぜ波風を騒ぎ立てるのか。

 

 

日本の君主である昭和天皇をもっても東条英機、他A級戦犯を止めることができなかったのは無念でしかありません。

来年2025年は昭和に換算すると昭和100年、つまり戦後80年の節目を迎えます。

 

「青い目の人形」が今なお平和教育にとって重要な意味を持つ存在なのだとしたら、親善活動の一環として現在でも世界各国において行うべきなのではないでしょうか。