前回 【2日目-⑥】
細久手宿~大久手(大湫)宿
大湫宿から次の大井宿の宿間には『十三峠におまけが七つ』と言われる難所が行く手を遮ります。
13の峠があるので十三峠、しかも「おまけが七つ」ということは合計20の峠・・・
地形断面図を見てみるとこんな感じ。
京側からだと大湫宿から大井宿まで標高250mほど下ることになるのでまだマシに思えますが、江戸側からだとかなり大変なのではないでしょうか。
かといって峠なので上り下りがあるので、京側ももちろん上り坂があるわけです。
果たして自転車で走破できるのか?
結論からいうと全区間走行可能でした。但し、グラベルタイヤ以上のオフロードタイヤが必須。クロスバイクやロードバイクのオンロードタイヤではまず無理だと考えます。
いよいよ本日の最難関である十三峠越えの13kmの入り口に到着しました。
「十三峠」「13km」は偶然の一致だとは思いますが、未舗装オフロードありのアップダウンで自販機も当然ないようなので、気合いを入れて進むことに。
寺坂
童子ヶ根
山之神坂
しゃれこ坂(別称八丁坂)
それぞれの坂に名称があるのが面白いですね。
これぞ十三峠の坂道グループといえます。
次第にコンクリ舗装路、アスファルト舗装路に切り替わり緩やかに下っていくと、市道?を横断、砂利のグラベル路の上り坂となります。
三十三所観音石窟
もしや西国三十三霊場と関係があるのか?と連想するとズバリそうでした!
本尊三十三体をここに祀っているのです。
私も50代になったら”終活”の一環で西国三十三霊場巡りをしようと計画してるので興味深く拝ませていただきました。
「阿波屋の茶屋跡」と刻まれた自然石碑
こんな山の中に茶屋があったのですね。売り物の搬入も大変だろうしそもそも通勤が大変でしょう(;^_^A
砂利のグラベル路からダート土道に切り替わりました。
私のオフ折車は問題なく走行できました。
びあいと(枇杷湯糖)坂を上ります。
枇杷の葉に薬草を加えて煎じた水(枇杷湯糖)が売られていたことが由来となっています。
視線の先、薄暗い土道に光り輝く物体を発見。
近づいていくとなんと蛍光色のゴルフボールでした。
すぐ先、中仙道ゴルフ倶楽部のカート道を横断するのが旧中山道。
このあたりはゴルフ場となっているようで、もしかするとOBボールが飛んでくるかもしれないので足早に立ち去ることにしました。
ゴルフ場カート道を横断すると、巡礼水の坂となり下っていくと左手に巡礼水(別称順礼水)の水場
連日の猛暑で湧き水も枯渇してしまったのか?まったく湧き出ていませんでした(;^_^A
🕒 15:00
加納宿より 9時間30分経過
加納宿より 61.9km
二度目の中仙道ゴルフ倶楽部のカート道を横断して100mほどで、両塚現存している権現山一里塚(90里)が現れました。
御嶽宿から始まった山岳区間の一里塚は主幹道路から離れていることもあってすべて現存しています。
樫の木坂を気持ちよくダウンヒルしていきます。
鬱蒼とする深い森林道が突然明るく開けたと思ったら、右手にバイオトイレ。
ちょうどトイレに行きたいタイミングだったので非常に助かりました(*´▽`*)
背面にソーラーパネルが設置されていて、室内の照明も自家発電しています。
私が理想とするDIYハウスの構造ですな
汲み取り式便所、いわゆるボットン便所と大きく違うのが、バクテリアを放ち二酸化炭素と水に分解することができる構造となっているのです。
下水処理場の微生物による浄化作用メカニズムに似ていますね。
吾郎坂を下っていくと炭焼立場跡の集落に入りました。
江戸時代に休憩場(立場/たてば)が制定され、現在でも集落として存続しているのでしょう。
そのままアスファルト舗装路のまま上り下り、灰くべ餅の出茶屋跡、大久後の向茶屋跡の集落を抜けると丁字交差して左折、さらに下っていくと瑞浪市より恵那市に入りました。
右斜め草道に入ります。
すぐ左手に、下座切場跡
通行する偉い役人に対し、地元の役人が土下座して迎えた場所なんだそう。
茶屋坂というグラベル路を上っていきます。
三城(みちじろ)峠(標高379m)に到着、これから下り坂になります♪
三城(みちじろ)坂を下って一面田園風景が広がるところに出てくると深萱(ふかがや)立場跡。
近くに恵那市コミュニティバスの停留所がありました。
国道418号に丁字交差して左折、すぐ左手に復元された藤村高札場跡
すぐ先右手の藤川に架かるコンクリート橋を渡るのが旧中山道となるのですが、そのまま北に行くとリニア中央新幹線の工事をしているようなので少し寄り道していくことに。
リニア中央新幹線長島トンネル(恵那市武並町藤 付近)
この辺りでは中山道のすぐ北側を並走するようなルートとなっているようです。
長島トンネルから京側には、高架橋の橋脚工事が行われていました。
リニア中央新幹線が通るルートの80%がトンネルだと聞いていたので、わずかな地上高架区間なのかもしれませんね。
リニア中央新幹線は、2027年開業を目標に進められてきましたが、今年4月に「2034年開業予定」に延期されました。これから10年後・・・
上海リニア(浦東空港-龍陽路)には中国駐在時代に数えきれないくらい乗車したことがありますが、リニア中央新幹線にも死ぬまでに一度は乗ってみたいものです。
旧中山道本線に戻り、藤川に架かるコンクリート橋を渡り左斜めに入ると、黒すくも坂を上ります。
「すくも」って何だろうと調べてみましたが、枯れた葦のことを「宿毛(すくも)」というようで、恐らく漢字で書くと「黒宿毛坂」なんだと思われます。
欄干が木製のコンクリート橋を渡るとオフ折車でもなんとか走行可能な石畳となりました。
うばが茶屋跡
東海道と中山道の分岐点である草津宿の名物は「うばがもち」、漢字で書くと「姥ヶ餅」と書き、昨年東海道の旅で【1日目】の朝食としてうばがもちや本店でいただきました。
こちらのうばが茶屋跡でも草津名物「うばがもち」類似品を売っていたのかもしれません。
現存する紅坂一里塚(89里)
またしても両塚共に現存しています。1876年(明治9年)一里塚破壊令(内務省令乙第120号) が公布され幹線道路などの道路整備に支障をきたす場所にある一里塚は撤去され、替わりに元標や里程標が建てられました。
御嶽宿~大井宿の区間の中山道は、交通インフラから離れていることから道路改修されなかったので当時のまま現存している貴重な遺構だといえます。
一里塚を過ぎると、再び一面田園風景が広がる農村部となり、グラベル路を東に向かうのですが、間もなくしてアスファルト舗装路に切り替わり家屋も出てきました。
旧家が点在する農道を進んでいくと、Y字路となり案内板に従い左斜めに進みます。
🕓 16:00
加納宿より 67.9km
10時間30分経過
「この先橋あり、転落注意」という案内板を過ぎると、草道と同化しつつある乱れ橋を渡ります。
乱れ坂という急勾配石畳となり、自転車を降り押し歩きます。
大名行列が乱れ、旅人の息が乱れ、女の人の裾も乱れたので「乱れ坂」と呼ばれたのだそうです。
何度も同じことを言いますが、昔の人のネーミングセンスには感服いたしますm(__)m
右手「首なし地蔵↗」という立札標識、少し高台にあるようで見学していくことにします。
1756年(宝暦6年)建立、首なし地蔵
昔旅人二人がお地蔵様の横で休憩して眠ってしまい、一人が首を切られ殺されてしまいました。助かったもう一人が「なんで助けなかったんだ!」とお地蔵様の首を切ってしまったそうです。こんな言いがかりをつけられたお地蔵様は無念だったことでしょう・・・
50mほど先左手に、今度は「姫御殿↗」いう立札標識
「姫御殿跡」という標柱が立ち平坦な広場となっていました。
和宮降嫁の際、美濃岩村藩により檜材で作られた臨時休憩所が作られていたのだそう。
ダート林道をさらに進んでいくと、1875年(明治8年)建立、「右 西京大阪 左 伊勢名古屋 道」と刻まれた槇ヶ根追分道標
右が来た京側で、左斜めに下っているのが下街道
下街道を見下ろしてみると、左カーブを描き急勾配で下っているようです。
下街道は概ね現在の国道19号に沿っており、土岐市、多治見市を経由し春日井市を経て名古屋城下に繋がるのだそうです。
槇ヶ根追分のすぐ横には槇ヶ根立場
中山道(上街道)を往く者、下街道を往く者の別れ場所であり情報共有の休憩所だったのではないかと想像します。
※ 「立場(たてば)」とは、宿場と宿場の間にある公的な休憩所。
200mほどで左にセントラル建設という会社のところで一度アスファルト舗装路に出て200mほど先を右斜めに入ります。
西行の森という自然公園の中を突き切るのですが、
「この先通り抜け出来ません」
「車両通行止」
の工事看板が出てきました(;^_^A
看板をよく見てみると「歩行者常時通行可」と書かれてあるので自転車は軽車両ですが押せば歩行者となるのでそのまま進むことにします。
右手遠景には中央アルプス最南端にそびえる標高2191mの恵那山が見えました。
恵那山の向こう側は長野県飯田市、天竜峡が有名な景勝地ですね。
綺麗に整備された遊歩道のような快走路を進んで行くと、両塚現存する槙ケ根一里塚(88里)が現れました。
一里塚の大きさは、幅5間(約9m)高さ1丈(約1.7m)と幕府より規定されていたのですが、この槙ケ根一里塚は明らかに大きく高さ3.5mはあるのではないかと思われます。盛りすぎですよね(◎_◎;)
リコー恵那の森というリコーエレメックス㈱の保有森内を旧中山道は通っています。
砂利グラベル路の下り坂がいつしか石畳に切り替わり気持ちよくダウンヒルしていきます。
<地図左下>
現在地 恵那市長島町中野
「是より西十三峠」と刻まれた標柱。
ようやくこれで御嶽宿から始まった約30kmの峠道が終わりました。
結局6時間強かかってしまいました(◎_◎;)
30kmの内、自転車に乗れたのは60%くらいだったのではないかと思います。
「十三峠におまけが7つ」と唄われる「おまけの7つ」とは御嶽宿~細久手宿間の物見峠(別称諸之木峠)、細久手宿~大湫宿間の琵琶峠などを踏まえられてカウントしているのかもしれません。
中山道ウォーカーにとって交通インフラから離れたこの約30km区間を一日で踏破しなければならないので最大の難所と言われています。
定年退職後に中山道歩きをされる方も多くいらっしゃると思いますが、65歳を超えてアップダウンの激しい山道を一日で30km歩くのはなかなか健脚でないと難しいと考えられます。
そして、自転車でも担がないといけない区間があり、大半で押し歩いたりと計画的な行動が求められるので注意が必要です。
以上、先人の記録として参考になれば幸いですm(__)m
中央道高架ガードを潜り、すぐ先の田違川に架かる西行橋を渡り左折。
JR中央本線・仲仙道踏切を渡り左折して下っていきます。
文明から取り残された山の中に6時間ほどいたので、交通インフラの代表である鉄路に出会うと安心しますね。
JR東海「仲仙道踏切」と書かれています。
1601年(慶長6年)五街道が整備された頃は「中仙道」とし、1716年(享保元年)「中山道」に改称されたことは知っていますが、「仲仙道」とはどういうことなのでしょうか?
Web検索では有力な情報を入手することができませんでした。
五差路の複雑な坂の上交差点を左斜め、県道68号恵那白川線重複区間に入ります。
「中山道→」の標識に従い進んで行くと、永田川に架かる長島(おさしま)橋を渡り左斜めに進みます。
まだ大井宿には到着していませんが、宿場町に近づいてきていると感じられます。
阿木川に架かる大井橋を渡ると大井宿京口に入ったようです。
欄干には英泉、広重画『木曽海道六拾九次』の浮世絵が貼られてありました。
67の宿場すべてが貼られているかは不明(;^_^A
阿木川上流方向、水源となる焼山(1,709m)を撮影。
46番目
大井宿
(岐阜県恵那市)
三条大橋から191km
日本橋まで347km
廣重画『木曽海道六拾九次之内 大井』
※ 画像は、Wikipedia「木曽海道六十九次」より引用。
美濃国恵那郡大井村(現岐阜県恵那市大井町)、横町・本町・堅町・茶屋町・橋場という五町を直角に曲がる6ヶ所の桝形によって区切られている。一説によると江戸幕府の築城計画があったそうで城下町として整備したとされている。
1843年(天保14年)の「中山道宿村大概帳」によると、
本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠41軒、家数110軒
京口側、4つの桝形をくねくねと曲がります。
まず1つ目の桝形を左に曲がります。
2つ目を右に曲がります。
左手に、市神(いちがみ)神社
元々は先ほど通過した京側の阿木川沿いに鎮座していた神社だそうですが、氾濫で流出してしまい1892年(明治25年)現在地に移転されたのだそうです。
右手に旅館いち川さんの交差点を左折します。
左手、明治天皇大井行在所(旧旅籠 伊藤家)
明治天皇ご宿泊されるにあたり、隣接の2軒を1軒に改築し拡大したのだそうです。
入場無料の施設なのですが、間もなく閉館時刻(9:00~17:00)につき見送りました。
すぐ先右手に、高木家脇本陣跡
上の案内板には、下問屋場跡とも書かれてあるので兼務されていたのでしょうか?
※ 「問屋場(といやば)」とは、人馬の継立・飛脚など現在の役所のような業務をしていました。
旧庄屋 菱屋(現中山道ひし屋資料館)
明治期の古山家を改修復元された建造物で見学もできるそうですが、開館9:00~17:00なので叶いませんでした。
林本陣跡 表門のみ現存
母屋は1947年(昭和22年)大火に見舞われ焼失してしまったが、表門のみ被害を受けなかったそうようです。
本陣門すぐ左手に、恵那郡役所跡
江戸期の本陣は、明治期に入り役所として利用されていたのだそうです。
5つ目桝形左折、すぐ先6つめ桝形を右折、横町川に架かる上横橋を渡ると、大井宿江戸口となります。
🕔 17:00
加納宿より 73.2km
11時間30分経過
46番目大井宿を後にして、2里18町(9.8Km)先の45番目中津川宿に向かいます。
日の入りが近づいてきたので急がなければなりません(^-^;
次回、
【2日目-⑧】
に続く。