<前回ブログ>

 

 

 

 

渋沢栄一記念館(深谷市)で出会った一枚の写真を元に、奈良県下に現存する「青い目の人形」を探し出したという記事をご紹介しました。

 
 
一番のお目当ては「青い目の人形」を一目見たいということだったのですが、訪れた東洋民俗博物館があまりにもキョーレツでインパクトに残る施設だったので、今回記事も引き続きご紹介させていただきたいと思います。
 
 
 

 

九十九黄人(本名 豊勝)

  つくも   おうじん

 

1894年(明治27年)-1998年(平成10年) 

享年103歳没

 

 

 

 

 

●略年表●

1894年(明治27年)兵庫県三木市の栄運寺住職の七男として誕生

1899年(明治32年)大阪道修町の薬問屋・中前家に養子に出される

1917年(大正6年)旧制東山中学(京都市・現東山高校)卒業

           早稲田大学政治経済学科入学

スタール博士の通訳兼助手の募集に応募したきっかけで親しくなる

1922年(大正11年)大学卒業後、島根県立中学校英語教師になる

スタール博士の日本各地の巡行に同行

1925年(大正14年)大阪電気軌道(現近鉄電車)が奈良市あやめ池に遊園地を建設するにあたり、博物館の招致に公募。

1926年(大正15年)菖蒲池遊園地(のちにあやめ池遊園地と平仮名表記に改名)開園

1928年(昭和3年)遊園地最西端に東洋民俗博物館開館

1933年(昭和8年)スタール博士東京都内で死去 享年75歳没

1998年(平成10年)九十九黄人死去 享年103歳没

2004年(平成16年)78年間営業のあやめ池遊園地閉館 

 

 

私が中高時代に夢中で見ていた番組、『探偵!ナイトスクープ』桂小枝探偵による「謎のパラダイスシリーズ」に登場されていたのを思い出しました。

放送当時、黄人氏は100歳だったようでなんと名古屋のご長寿双子姉妹きんさんぎんさんと同世代なんです。

そういえば上岡龍太郎局長キダタロー最高顧問、最近だと桂ざこば顧問も鬼籍入りされました。

 

ところで九十九黄人氏「黄人(おうじん)」はご自身で改名された名前なのですが、日本人は黄色人種であり、英語のイエローマン「イ」をとったら「エローマン」つまり「エロ男」という洒落から名付けられています。なんて奇抜なお名前なんでしょう。

 

 

 

東洋民俗博物館 

 

奈良市あやめ池北1-5-26 (←リンク先Googleマップ)

開館時間: 完全予約制

入館料: 1回1000円(2名まで)、3名以上500円/人

電話: 0742-51-3618

 

 

 

近鉄奈良線・菖蒲池駅(2004年遊園地閉園までは仮名表記/あやめ池駅)北口より西に徒歩7分、450mとアクセスの良いところにあります。私は平日仕事終わりに車で訪れました。

 

 

 

30歳代以上の奈良県民であれば間違いなく知らない人はいないであろう「あやめ池遊園地」、プライベートはわからないが小学校の遠足で一度は訪れたことがあるはず。

 

今より約100年前に開園した「あやめ池遊園地」とほぼ同時期に開館したのが、東洋民俗博物館となります。入り口スロープを上り右側の駐車場に車を停めました。

 

 

 

近鉄の前身、大阪電気軌道時代らしいスパニッシュ様式の建造物。

「宇治山田駅(伊勢市)に似ているな」というのが私の第一印象で、宇治山田駅は1931年(昭和6年)開業で近代建築家・久野節氏のデザインなのですが、東洋民俗博物館と同一かどうかはわかりませんでしたが、共通点を感じられます。

 

 

 

外観写真を撮影していると、館長・九十九弓彦氏がお出迎え下さいました。

実は約束時間の20分ほど前に到着しており、「あやめ池遊園地」の遺構探しをしようと企んでいたのですが、早速に館長自らマンツーマンのアテンドを受けることになりました。

 

 

三代目館長・弓彦氏は、関西大学卒業後NHK放送記者を42年間定年まで勤め上げたのち、二代目館長・迪樹氏(黄人の長男)より引き継がれました。1944年(昭和19年)生まれ現在80歳になられます。

 

 

「30分ほどご説明させていただきその後はご自由に見学下さい。私も歳なんで30分くらいで疲れてしまうのです・・・」

 

と一声のご挨拶を受けたのですが、帰り際時計を見ると2時間経過していました(笑)

 

 

 

 

以下、館長・弓彦氏のご案内を元に文面に纏め、私の感想などを追記してご紹介したいと思います。

左右対称L字型館内はすべて撮影OK、中央奥の秘宝室(正称森羅万象窟/別称奥の院)は撮影NGとなっています。

なお、ほとんどの資料がショーケースに入っていて映り込みや反射などなかなか撮影が困難で見苦しい写真が多いことを先にお詫びしておきます。

ということで、ぜひ現地にて”生もの”を御賞味いただくのが良いかと思います。

 

 

 

まずは外構左手に、

1930年(昭和5年)建立、和服で装ったスタール博士胸銅像

戦時中、アメリカに不信感を抱いた反米感情、日本軍による金属類回収令から逃れるため、黄人氏は自宅奥に隠されていたことで一難を逃れることができた。

 

 

台座銘板に「御札博士像」と書かれてあります。

和服姿で各地の神社を訪れて御札を集め、「壽多有(すたーる)」と書かれた自作千社札を貼って足跡を残されたことで、「御札(おふだ)博士」というニックネームが付けられたのだそうです。

 

 

このスタール博士との運命の出会いこそ黄人氏の半生いや一生に多大な影響を与えた人物といって過言がないといえます。

先述した黄人氏略年表に早稲田大学在学中にスタール博士の通訳兼助手をしていたと記載しましたが、さらに遡ること旧制中学生(現高校生)時代にファンレターを出していたのが始まりだそう。英語教師になるくらい英語が堪能だった基盤はこの文通が嵩じたのかもしれません。

今のように検索ワード一つで多くの情報を得られなかった大正時代、しかも情報弱者であろう旧制中学生がどうして異国のスタール博士を知り、そして出会い共に半生を共にしたのかが非常に気になるところです。

 

 

和装で正座するスタール博士。親日家なのがよくわかるスナップですね。

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※ 画像は、Wikipedia「フレデリック・スタール」より引用。

 

 

 

 

スタール博士の調査に同行した際に収集したもの、スタール博士の収蔵品を引き継いだものなど、アジア、欧米や南米、アフリカの民俗学に関する資料が展示されています。

 

 

 

それでは黄人曰く、「我楽しむ」の意味での

 

「ガラクタ(我楽多)」

コレクション

 

 

早速入館させていただきます。

 

 

 

玄関両脇のステンドグラスをよく見てみると隠し絵で女性の足がデザインされているんですよ。

 

 

 

2022年(令和4年)奈良県の有形文化財に指定されました。

 

 

 

正面入り口を入って目の前中央の椅子は、黄人氏生みの母親・寿(すい)さんより代々引き継がれているもので、往年は黄人氏も愛用されていたのだそう。

なぜかタイヤを取り付けられ車椅子にDIY改造されているのは何か理由があるのだろうか?

 

 

 

入口すぐ左手にパラオの石貨が無造作に置かれています。

 

 

 

このドーナツ状の石貨、なんと牛20頭もしくは豚30頭の価値があったのだそう。

牛1頭がおおよそ200万円なので、現在だと4,000万円の価値があるということですか!

 

 

 

真ん中に立っておられるのが当時パラオ共和国の村長さん。

天理大学に留学されていた親日家だったことで縁が生まれたのだそう。

左下に若かりし頃の黄人氏、右下の方は同行された方。

 

 

 

江戸初期より始まったキリシタン禁止令で実際に使用されていた真鍮製踏み絵

教科書では見たことはありますが、実物を見たのは初めてだったので興奮してしまいました。

 

 

 

チベットラマ教の男女の仏が抱き合う姿で表わされる父母仏(ヤブユム)坐像

 

 

 

舌を出したチベット人形

舌を出すことで「嘘は言いません」という相手に敬意を払った挨拶なんだそう。

 

 

 

朝鮮半島の魔除け「天下大将軍」

そういえば10数年前にソウルに行った際、東大門の焼肉屋の入口に木彫りした天下大将軍があったのを思い出しました。

 

 

 

価値があるのかどうかはわかりませんが、中国の玩具。

 

 

 

中国・嫁入り行列人形

私もかつて中国に住んで仕事していた時期に一度だけ結婚式に招待されました。

その時、台本に沿った儀式があり驚いたものです。この人形を見ると何十年も前から行われているのだと再認識できました。

 

 

 

台湾・タオ族の土人形

日本の土偶のような感じ。

 

 

インド人形

なかなか巧妙に造られていて今の時代でいうフィギュアなんでしょう。

 

 

 

インドの仏具

インドより仏教伝来したわけですが、当たり前かもしれませんが日本の仏具と同じに見えます。

 

 

 

中国の履物

 

 

 

1900年前半に実際に使われていた纏足。実物を初めて見ましたが全長10cmくらいしかありません。

親指以外の4本の指を内側に曲げ一生涯歩けなくさせ、刺繍など長時間座ったままの仕事をさせるためだったそう。辛亥革命を機にこの文化が消滅したとされています。

 

 

 

スペイン・騎士の兜

 

 

 

戦国時代・武将の兜(焼かれている)

 

 

 

明治期の警察帽

 

 

江戸時代・下等武士の陣笠

 

 

 

日本各地の神社にスタール博士と回った思い出の絵馬コレクション

現館長自ら整理して、一目でわかるように展示したのだそう。

古代、神社には生きた馬を奉納するという文化があったそうで、それを転じて馬の絵を描いた絵馬となったのだそうです。

 

 

 

 

旧中山道・1番目板橋宿にある縁切榎神社(←リンク先Googleマップ)の当時の絵馬

1862年(文久2年)公武合体のため14代家茂の正室に和宮が降嫁される際、「縁起が悪い」として迂回された神社としても有名です。

 

 

 

続いて、入口右側の展示室を見学させていただきます。

 

 

 

東大寺大仏殿の大屋根両端に鴟尾(しび)の縮小版レプリカ

 

 

 

1968年(昭和43年)現館長の弓彦氏(当時24歳)がNHK記者時代、東大寺大仏殿の屋根裏の雨漏り調査の取材で鴟尾(しび)前で撮影された写真。

当時は安全管理もずさんな時代だったので、他の記者も同様に命綱などなしで上ぼり文字通り命懸けの取材だったと仰っていました。

 

 

 

くるみ割り器

 

 

 

ブラジル・魔除けのフィグサイン木工

人指し指と中指のあいだから親指を突き出すのは日本では卑猥なジェスチャーと知られていますが、ブラジルでは「魔除け」のジャスチャーで全く文化が異なる。

 

 

 

ミイラのち●こ

南米ペルー・リマ市に訪問した際、ミイラ一体もらえるという機会に恵まれ、流石に日本にミイラを持って帰るのは難しかったので、局部ち●こを切り取り持ち帰ったのだそう。

 

 

 

一見皇室の「菊花紋章」に見えるが、花びらを数えると17枚!

通常は16枚なのに17枚とは偽物!?

その通り、この”十七”八重表菊黄人氏のオリジナル品で今でいうパロディー。

どんな用途に使っていたかというと、車の運転があまり得意ではなかったので自家用車に貼りつけ周りに近づけさせないようにするためだとか。

 

 

そして、昭和天皇が奈良ホテルに宿泊されたときにご使用されたお箸。

箸袋は奈良ホテルが準備されたのかどうかはわかりませんが、「菊花紋章」が描かれています。

 

 

 

中国・天津泥人形

これなかなかユーモラスな人形でして、中央下に鏡があるのが見えるでしょうか?

この鏡に映るのが・・・、これ以上は品位に関わるので、興味が湧かれた方はぜひ現地現物をご見学ください。

 

 

 

スタール博士よりプレゼントされた青い目の人形

詳細は、【前回ブログ】(←リンク先)に纏めていますので時間があればご覧ください。

 

 

 

蘇民将来(そみんしょうらい)とみちのくこけし

岩手県の蘇民祭には「蘇民将来」と記された木の置物を厄除け祈願としているが、みちのくこけしのルーツではないかと黄人氏は研究されていたそうです。

 

 

 

確かに「こけし」の形状に似ているように思えますね。

 

 

 

薩摩達磨

 

 

 

二見興玉神社(伊勢市)・蛙の鋳物

 

 

 

第二次世界大戦遺品

溶けたビール瓶は広島県から資料として譲受品。

 

 

 

天井より吊るされた木製のB29爆撃機模型

 

 

 

戦時中、行政から小学校に配布された本物。

 

 

 

「B29が飛んできたら直ちに避難しろ!」と避難訓練の教育を受けていたのだそう。

各地の平和祈念館に訪れていますが、このような模型は初めて拝見しました。

 

 

 

 

 

 

最後に、黄人氏が使われていた書斎と隣接している秘宝室(正称森羅万象窟/別称奥の院)にご案内いただきました。こちらは撮影NGなので写真はありません。

 

 

立川水仙郷ナゾのパラダイス(淡路島/2023年3月閉館)に一度訪れたことがあるのですが、比較対象にしてはいけないのは承知の上で感想を述べると、こちらの東洋民俗博物館の秘宝室には「露骨なエロ」は皆無といってよいかと思います。むしろ隠さず伝える性教育なのではないだろうかと思いました。

 

戦後最初のエロ本と言われた久保書店から発刊された月刊誌「あまとりあ」が全刊揃っているのはここだけだそうで拝見させていただきましたが、裸体といったセクシャルな画像は全くなく、例えるならば保健体育の教科書といった内容でした。

 

 

 

 

 

「無限の宇宙を

有限の人間が

知ろうとしている

九十九」

 

と刻まれている石碑。

 

 

 

恐らく黄人氏が発した名言なのだと思いますが、さらに下部をよく見てみると、

 

 

HALLEY'S COMET TWICE

 

 

ハレー彗星を二度。

 

 

 

前回ハレー彗星が地球に最接近したのは、1986年(昭和61年)4月、黄人氏91歳

その前は1910年(明治43年)5月、黄人氏16歳

生涯で二度ハレー彗星を見られたのでしょう。76年に一度しか最接近しない惑星に二度見れるということは考えてみるとかなり確率が低いと考えられます。

しかも明治43年の時代背景から推測するに、ハレー彗星なんて一部の人しか知らなかったのではないかと思うと、HALLEY'S COMET TWICEってとても素敵な名言ですね。

 

 

米寿の黄人氏