前回 【1日目-⑤】
高宮宿~鳥居本宿
鳥居本宿江戸口を出て、しばらくして左手に見えてきたのは、彦根市に本社を置くエレベーター・エスカレーターの大手専業メーカー、フジテックのエレベーター研究塔。
その先、右手には「おいでやす彦根市へ」「またおいでやす」と刻まれた三本の石柱。
上に、近江商人・旅人・虚無僧(こむそう)の像が乗っています。
虚無僧と滋賀県の因果関係はよくわかりませんが、尺八を吹きながら旅をされていたのでしょう。
犬上郡豊郷町より彦根市に入った市境にも同様のモニュメントがありましたので、米原市との市境?と調べましたが、彦根市/米原市の市境はまだ500、600mほど北のようでした。
国道8号に合流しますが、すぐ先で右折するので、そのまま右側歩道を進むことにします。
右手に、1979年(昭和54年)建立、「右 中山道」と刻まれた道標。
<地図左下>
現在地 彦根市鳥居本町
矢倉川に架かる矢倉橋を渡り、右側の住宅と住宅の間(私有地?)に建つ、「左 北國 米原 きの本道」「右 中山道 摺針 番場」「下矢倉町」と刻まれた道標。
真っすぐ進むと北陸街道・米原宿、長浜宿方面で最終上越市直江津あたりで軽井沢町より分岐してきた北国街道と合流します。
1977年(昭和52年)建立、磨針峠望湖堂碑を右折して山側に進路を取ります。
※ 「摺針(すりはり)」だけでなく「磨針(すりはり)」とも書くようです。
「舊中仙道」「明治天皇御聖跡」「弘法大師縁の地」「是より山道八百米」と刻まれています。
旧中山道はこれより北東方向に進み、摺針峠を越え番場宿、醒井宿と続きます。
現在の名神高速道路とほぼ並走するルートとなるのですが、鉄道インフラは大きく異なるので、Googleマップを用いて説明したいと思います。
赤線:中山道ルート、水色:東海道新幹線、青線:東海道本線
JR東海道本線(琵琶湖線)は、彦根駅を出て米原駅を過ぎ東の醒ヶ井駅に向けて大きくカーブします。
東海道新幹線は、草津宿手前の瀬田唐橋よりずっと旧中山道と並走してきましたが米原駅を過ぎもう少し北上してから緩やかにカーブを描き東に向きます。新幹線は超高速走行なので少しでも直線距離を稼げるような路線配置にしたのだろうと想像できます。
そして、中山道は人足なので鉄道も通せなかった摺針峠に挑むことなるわけですが、中山道の旅は草津宿をスタートしているのでこの旅初めての峠越え区間となります。
東海道五拾三次の旅の時は、三条大橋をスタートしたので、大津宿までに日ノ岡峠・逢坂山峠を越えました
左が本来の中山道、右の舗装路は現在の中山道、私はもちろん本来の中山道を進みます。
左の防壁は湖北総合開発彦根工場という会社、草道を進みます。
ようやくオフロード折りたたみ自転車の本領発揮といったところでしょうか。
ところどころぬかるみがあり、急坂は自転車を下りて押しました。
それにしても大きいやぶ蚊が「ブーン」とまとわりついてきて不愉快。
蚊は汗の臭いを感知して寄ってくると聞いたことがあるので、今の私は絶好の獲物なんでしょう。
「昼猶闇き 杉の並木♪」(by箱根八里/滝廉太郎)と自転車を押し担ぎながら上っていくと、ようやく明かりが見えてきました。
日陰は日陰で涼しくて良いのですが、やぶ蚊がなんともね(-_-;)
一旦、舗装路に出て振り返り撮影しました。
右の山道を藪掻きながら来た本来の中山道、左のアスファルト舗装路は現在の中山道。
国道8号付近で分岐したのがここで合流というわけです。
その本来の中山道の延伸上にあるのが、階段?えっ!?階段なの??
「やっぱ、これ上るのよね?」と葛藤しながら、念のために中山道アプリを稼働させてみることに。
できれば舗装路の方であって欲しい。。。
この中山道の旅のためにインストールしておいたアプリを稼働させます。
またアプリの詳細は、使いながらご紹介しようと思いますので、今はとりあえずルート確認をします。
舗装路は北に大きく迂回するのに対して、本来の中山道はやはり階段を上るようです(◎_◎;)
いくらオフロード自転車とはいえ、こんな階段上がれるわけないので、自転車担いで上ります。
まさかこの後ここを通ったことで事件が発生するとはこの時はまだ露知らず。
60~70m程度でしょうか?それほどでもなく出口が見えてきました。
左の谷側歩行者自転車用柵があるのが本来の中山道、右の舗装路は迂回した新中山道。
🕙 10:00
出発して5時間経過
サイコン距離 49.7km
摺針峠(標高154m)に建つ望湖堂跡
「明治天皇摺針峠小休所」と刻まれた石碑
茶屋本陣を備えた大きな茶屋があったそうで、明治天皇や諸大名が琵琶湖の絶景を見られ、皇女和宮はこの地で献上された摺針餅を召し上がったのだそうです。
「摺針餅とはどんな餅なのだろう?」
とWeb検索したところ、詳細は不明のようですが、和菓子『とらや』さんがイメージされた摺針餅の画像がヒットしたので紹介しておこうかと思います。
※ 画像は、和菓子老舗「とらや」公式HPより引用。
森林の間から遠景にかすかに琵琶湖が見えます。
ところでこの摺針峠ですが、平安初期、京で修行をしていた青年僧が逃げ出しここを通った際、斧で石を摺っている老婆に出会います。老婆は斧を磨いて針にするのだそう。
「この老婆の苦労に比べたら自分の修行はまだまだ甘かった」と自分の未熟を恥じ、心を入れ替えて修行した青年僧こそがのちの弘法大師(空海)なのだそう。
これが摺針峠の名前の由来になっている素敵な話です。
緩やかな下っていくと左手に、磨(摺)針一里塚跡(118里)
摺針峠は標高170mなので、このあたりは150mくらいでしょうか。
谷筋で周りは木に囲まれているせいか幾分涼しく感じます。
右手に、「摺針峠 彦根」「番場 醒井」「右 中山道」「左 中山道」と刻まれた道標
三差路となっていて左斜めに進みます。
右すぐ横、名神高速と並走するように緩やかな上り坂を上ります。
京側の摺針峠を大峠として名神高速・米原トンネルあたりを小摺針峠というそうで、これより彦根市より米原市に入ったようです。
ところでこの地名の「米原」ってなんて読むかご存知でしょうか?
Googleストビューより編集した名神高速×北陸自動車道・米原JCTの案内標識には、
「MAIHARA」、清音の「まいはら」であることがわかります。
名神高速が開通した1965年(昭和40年)では濁音の「まいばら」だったそうですが、いつしか旧地名の「米原(まいはら)町」に合わせて静音の「まいはら」に改称したのだそう。
恐らく米原町自治体が「濁音じゃないよ!」と指摘したのかもしれませんね。
同じくGoogleストビューより編集した米原駅。
よく見ると「MAIBARA STATION」、濁音の「まいばら」であることがわかります。
JR西日本とJR東海の境界駅・米原(まいばら)駅
の所在地は、米原(まいばら)市米原(まいはら)、
濁音「ば」と清音「は」と混在しているのも不思議ですよね?
かつて、滋賀県坂田郡にあった米原(まいはら)町は、2005年(平成17年)同郡山東町(さんとうちょう)、伊吹町と合併して「米原(まいばら)市」が発足したことで、旧米原町の「まいはら」ではなく、知名度の高い米原(まいばら)駅に合わせて「まいばら」を採用したのだそうです。
ちなみに米原市の公式Webサイトを覗いてみると、URLに「maibara」、濁点の「まいばら」が使われていました。
名神高速に並走する谷筋が当時の中山道なんだと納得しながら気持ちよく下り坂を下っているときに事件が発生しました。
摺針峠をほぼ自転車を押し担いで上り、小摺針峠は心地の良い上り坂で軽くヒルクライムしてこれから番場宿まではずっと下り坂というサイクリストであれば最高のひと時に最悪の事態が発生したのです。。。。
ヤマビルに噛まれた!
しかも2匹(;゚Д゚)
”ブログ魂”的には、ヤマビルに噛まれている様子を写真に収めてから取り払いbefore→afterを実況すべきなのかもしれませんが、とにかく気持ち悪いのと手で払っても取り除けないのとで結局、左の靴のつま先で蹴り落としました(◎_◎;)
2022年夏、心筋梗塞を患ってからはトレイルランからは遠ざかっているのですが、中山道は山道が多いことが事前にわかっていたのでトレラン必須アイテムのカーフスリーブも持参していたのについ装着せず油断していました・・・
生まれて初めてヤマビルに噛まれましたが、痛さよりも気持ち悪さが勝りますね( ノД`)
🕦 10:30
出発して5時間30分経過
サイコン距離 52.6km
「中山道 番場」と刻まれた自然石の石碑
これより番場宿京口に入ります。
62番目
畨場(番場)宿
(滋賀県米原市)
三条大橋より75km/日本橋まで463km
廣重画『木曽海道六拾九次之内 畨場』
※ 画像は、Wikipedia「木曽海道六十九次」より引用。
長谷川伸の戯曲『瞼の母』で「番場の忠太郎」の故郷として脚光を浴びたが、架空の人物で実在しない。
番場の地名由来は、摺針(すりはり)の関所の番衛が居た場所である所からと言われている。
1843年(天保14年)の「中山道宿村大概帳」によると、
本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠10軒、家数178軒
町工場、比較的新しい住宅を抜けると旧家が増える通りに入ってきました。
左手に本授寺
番場資料館
番場宿出身で彫刻家・泉 亮之(いずみすけゆき/1838年-1918年 享年70歳没)の生家を活用したもの。
続日本百名城に選定された鎌刃城跡がここより南に3kmくらいにあるようです。
御城印@300円が気になりましたが、本筋(中山道)とは直接関係ないので購入は見送りました。
左手に、稱揚寺(しょうようじ)
難読漢字です。
鎌刃城ののぼり旗が立つこちらの建物は何なんでしょう?
説明書きがなくて不明。
西番場公民館の右に、北野神社
平安中期894年(寛平6年)創建、その社名通り菅原道真を祀っています。
菜種川の土手を上がっていったところに鎌刃城跡があるようです。
番場の忠太郎を記念した「忠太郎地蔵尊」が安置されている蓮華寺が、ここより山側400mくらいにあるのですが、今回は時短のため見送ることにしました。
「明治天皇番場小休止所」と刻まれた石碑と問屋場跡
※ 「問屋場(といやば)」とは、人馬の継立といって荷物を次の宿場まで運ぶ業務や書状や品物を届ける飛脚業務を担っていた施設。
問屋場跡碑は他にも多くあり、どうやら全盛期には6軒あったのだそうです。
米原湊を控え物資輸送が盛んであったから番場宿には多く設置されていたようです。
北村家本陣跡 石碑のみ
左に1889年(明治22年)建立「米原 汽車汽船 道」と刻まれた道標
明治22年にもなると「汽車汽船」が輸送インフラで活躍していたのでしょうね。
西には北国街道脇往還・米原道との追分
谷筋を下って行くとJR米原駅あたりに繋がっているようです。
街道絵図(五海道其外分間延絵図並見取絵図)にも、米原道と記載されています。
「中山道 番場」と刻まれた自然石の石碑と番場の忠太郎の銅像
この忠太郎銅像は、かつて米原IC付近にあった『忠太郎食堂』の第二駐車場に食堂オーナーが自費で制作し建てられていたものなのですが、2012年(平成24年)食堂を閉業され、その後オーナーもお亡くなりになったのだそうです。
それから番場宿にてまちおこしプロジェクトが発足、2022年(令和4年)3月、食堂オーナーのお知り合いであった長浜市在住元バス運転手83歳の方が購入され自宅の庭に移設されていることがわかり、それから交渉を重ね2023年(令和5年)ここ中山道米原道追分に番場のシンボルとして移設されたのです。
番場の忠太郎を主人公とした『瞼の母』のタイトルくらいは知っていましたが内容は存じ上げず、紅白で氷川きよしが歌った『番場の忠太郎』という曲くらいしか知りませんでした。
江戸口である東見附跡より見た番場宿
62番目番場宿を後にして、1里(3.9Km)先の61番目酔ヶ井(醒井)宿に向かいます。
次回、
【1日目】-⑦に
続く。