「死ぬまでにやりたいこと」

 

をこなしてさえいれば、

 

「我が生涯に一片の悔いなし」

 

こう言える人生になるだろう。

 

 

東海道五十三次を江戸時代の運送業である飛脚のようにマラソンで完踏という目標を持っていました。一日70、80km走れば7日間で走破できる。

 

しかし、なにかしらの言い訳を作っては先送りにしてしまい、挙句に2022年夏に心筋梗塞を患ったことで「死ぬまでに達成できなかった・・・」と人生半ば夢破れて落ち込みました。

 

高校1年にランドナーで西日本横断&九州一周自転車旅をして、その旅で元競輪選手に出会ったことで、高校2年より固定ギアのピストに乗り、競輪場で青春の汗を流しました。

大学時代はしばらく自転車とは離れましたが、社会人となりデュアスロン(ラン+バイク+ラン)に始まり、トライアスロンにもチャレンジするようになりました。

 

そして40歳を越えてからはもっぱらミニベロを車に積んで輪行してゆるポタとかなりソフトな自転車生活ですが、ホイールが小さく機敏なハンドリングができ、「ストップ&ゴー」が多い東海道五十三次の宿場町や山道には、良き相棒であったと思いました。

 

 

《ミニベロで行く》東海道五拾三次の旅を行ったのは、2023年7月でしたが、

最後に『総まとめ』を継ぎ足し、”今年一番の思い出”としてログを残しておきたいと思います

東海道五拾三次の旅をしたことがある方は懐かしみ、これからしたいと思っておられる方の参考になれば幸いです。

 

 

  1日目 京都三条大橋~四日市宿 117.2km

 

江戸時代、「寅の刻の七つ立ち」(現在の朝4時頃)と言われたのですが、真夏とはいえさすがに夜明け前で暗いので、京都三条大橋(京都市東山区)を朝5時にスタートしました。

これから500kmの自転車旅が始まると思うと不安よりも好奇心が勝っていました。

 

 

三条通り蹴上坂日ノ岡峠を越え、山科区に入り、そして京都府/滋賀県の県境を過ぎると逢坂山の関で創業明治5年「かねよ」の顔はめパネルにてセルフタイマー自撮り記念撮影。

この旅に備え小型の三脚を購入したのですが、ほぼ使うことがなかったのが悔やまれます。

ダラダラとした風景写真よりも人物が入った写真の方が自転車旅の躍動感があるからです。

 

 

「急がば回れ」の語源となった矢橋の渡しの琵琶湖西岸・石場湊(大津市石場)にあった常夜燈。実際は現在の草津警察署の場所が石場湊だったのを現在地に移設されたのですが、対岸東岸・矢橋湊を結んでいました。

 

 

「急がば回れ」のことわざには、付属語があります。

「急がば回れ、瀬田の唐橋

矢橋(やばせ)の船は速いけれど、急いでいる時こそ遠回りして瀬田の唐橋を渡れ」とされていました。

 

 

右(東)が東海道、真っすぐ(北)の草津川隧道を潜れば中山道、ここは草津宿追分

草津川は2002年(平成14年)治水工事により廃川となり、現在は「草津川跡地公園」が整備されています。

 

 

草津宿→石部宿に向かっていると美しい近江富士(正称:三上山/標高432m)が見えました。

山の向こう側は、野洲市旧中山道国道8号が通っています。

 

 

水口宿

江戸時代からの三叉路「水口宿三筋」は城下町ならではの複雑なルートでした。

 

 

土山宿を過ぎると、【1日目】の大ボスである鈴鹿峠越え

愛車ミニベロに装着しているタイヤは普通のオンロードタイヤですが、石段付近まで乗っていけました。これもミニベロがゆえに小径タイヤが活かされているのだと思います。

 

 

鈴鹿峠を越えると坂下宿(亀山市関町)→関宿(亀山市関町)。

江戸時代から明治時代に建てられた古い町家が200軒くらい残されており、伝統的建造物群保存地区に指定され、電線は地中化されています。

 

 

亀山宿庄野宿石薬師宿を過ぎ、伊勢街道との分岐・日永追分(四日市市日永)

2022年春、日永追分をスタートして伊勢神宮内宮まで約80kmマラニックで踏破した思い出の地。

 

 

 

【1日目】のゴールは、四日市宿(四日市市諏訪町)

諏訪神社で初日の道中安全の無事をご報告させていただき、この旅の常宿である快活クラブ四日市西新地店に宿泊させていただきました。

 

 

  2日目 四日市宿~佐屋街道~宮湊 40.4km

 

四日市宿早朝5:00にスタートし次の桒名(桑名)宿桒名湊には1時間ほどで到着。

江戸時代はここより宮宿熱田湊までの7里(約27.5km)は、『七里の渡し』で海路を辿らなければなりません。『七里の渡し』の歴史は古く、奈良時代の日本書記にも登場するくらい重要な海上インフラであったといえます。

 

 

『七里の渡し』は、東海道唯一の海上航路でしたが、悪天候のために渡航困難、また船旅を好まない人、船旅に弱い人たちのために、脇街道としての佐屋街道が整備されていました。

佐屋湊から桒名湊までの『三里の渡し』の川路である佐屋川(廃川)木曽三川に沿って進みました。

佐屋湊は土砂による堆積でのちに廃湊、それからは川下に移行され『二里半の渡し』川平湊(現愛西市森川町)、さらに川下に移行され『ふたつやの渡し』前ヶ須湊(現弥富市前ヶ須町)をもって渡し舟は役目を終えました。

 

 

佐屋宿神守宿万場宿岩塚宿佐屋街道の宿場町を巡り、熱田神宮にて参拝。

 

 

『七里の渡し』熱田湊

三里の渡しの脇街道ルート・佐屋街道を辿りきましたが、歴史上ではさらに古く奈良時代より海路として利用されていたそうです。

 

 

【2日目】は、走行距離40.4km(四日市宿~佐屋街道~熱田湊)と予定通りの行程だったわけですが、午前中に旅を終えてしまったことで、これが後半になりにボディーブローのように効いてくることになるとはこの時は思いもよりませんでした。

 

土日の休みを使った”細切れ”自転車旅行なので、偶数日(2日目、4日目、6日目)は帰宅のため輪行しなければならないので、なるべく電車沿線の近い宿場で終える行程を組んだのが後半シワ寄せすることに・・・

 

 

  3日目 宮宿~濱松宿 115.1km

 

自宅より熱田神宮近くのakippa駐車場に停め、【3日目】リスタート。

 

宮宿鳴海宿

尾張四観音の一つである笠寺観音(笠覆寺)

 

 

間の宿・有松

重要伝統的建造物群保存地区に指定されている町並みは、地中に電柱が埋められ江戸時代にタイムスリップしたような感覚になります。関宿も同じような雰囲気で保存されていました。

 

 

池鯉鮒宿(知立市)→岡崎宿(岡崎市)

矢作橋西詰には、秀吉がまだ日吉丸と名乗っていた頃、信長家臣の蜂須賀正勝と出会いのちに信長と出会うキッカケとなった場所には、出合之像が建てられています。

 

 

岡崎宿では田中吉政が整備した二十七曲りの複雑な街道に翻弄されました。

次の藤川宿東木戸(江戸口)は、廣重画浮世絵そのものの光景に復元されたことを見てこの地域の人々に東海道が愛されていることを実感することができました。

 

 

赤坂宿 大橋屋(旧旅籠鯉屋)

2015年(平成27年)まで旅館として営業を続けていた東海道中最後の旅籠。

 

 

赤坂宿御油宿 7月酷暑の中の自転車旅行だったので、約1kmに渡る御油の松並木の木陰には随分助けられました。

 

 

飯盛女が多く在住していた御油宿を過ぎ、次は城下町吉田宿

そして、愛知県三河国最後の宿場は二川宿は、本陣・旅籠屋・商家の三つを見学できる日本唯一の宿場町。旅籠 清明屋(せいめいや)

 

 

白須賀宿(湖西市)より長い長い静岡県が始まります。

東海道という名にも関わらず、宮宿熱田湊(名古屋市熱田区)以来久しぶりに見る海は遠州灘でした。

 

荒井宿(新居宿) 新居関所跡 

舞坂-新居間を結ぶ今切の渡し渡船の船着場があり、「入鉄砲に出女」を厳しく取り締まった。

 

 

弁天島のシンボルである大鳥居が作られたのは1973年(昭和48年)

奥に見えるのは、国道1号浜名バイパス浜名大橋1976年(昭和51年)架橋、2005年(平成17年)より無料で通行できるようになりました。

江戸時代の人々にとって難所であった『今切渡し』も今では不自由なく通行できるのです。

 

 

夜は遠鉄百貨店グルメ街で浜松餃子をご賞味させていただきました。

濱松宿快活クラブ浜松南口駅前店にて就寝。

 

 

  4日目 濱松宿~府中宿 90.8km

 

濱松宿を早朝5:00に出発し、磐田市との市境に流れる天竜川を渡ります。

「暴れ天竜」という異名を持つ天竜川は、江戸時代は舟渡で渡っていました。

現代では県道261号磐田細江線が通る天竜川橋で容易に通れる・・・とは言い難く、自転車道はおろか歩道もない全長1,071mの橋梁は、ある意味現代でも難所と言えそうです。

 

 

見付宿(磐田市)→袋井宿(袋井市) 江戸から数えても京から数えても27番目の宿場町ということで、街中で「ど真ん中」をリスペクトされているのがよくわかります。

 

 

日坂宿(掛川市日坂)下木戸の高札場

ここまでも高札場跡の石碑や縮小したレプリカは何度か見てきましたが、この高札場は当時の大きさのまま復元されているらしく非常に参考になりました。

 

 

日坂宿金谷宿の間には、難所・小夜(佐夜)の中山峠が立ちはだかります。

難所には違いないのですが、牧之原台地に広がる茶畑に癒されたお蔭で難所も軟所に感じられました。

 

 

頂上付近にある茶屋「扇屋」さんでは、冷たい緑茶を無料で提供していただきました。

お世辞抜きに今まで飲んだ緑茶で一番美味しかった!

江戸時代に接待茶屋といわれるボランティアでお茶をいただける施設が東海道には多くあったのだそうですが、現代でも人の優しさが身に染みる体験となりました。

 

 

「一難去ってまた一難」のことわざは、きっと小夜の中山峠を越えてホッとしたところ始まる菊川坂金谷坂のことを指すに違いありません。

事前調べをしていなかったこともあり、気を緩めてた矢先での峠越えは骨が折れます。

 

 

金谷宿→嶋田(島田)宿

「箱根八里は馬でも越すが越すに越されぬ大井川」

江戸時代、大きな河川には橋がほとんど掛けられておらず渡り舟か徒歩(かち)渡しで渡るしかありませんでした。この大井川は江戸を守るための軍事的な理由で渡船も禁止され川越人足(かわごしにんそく)に乗って渡らないといけなかったのです。

 

 

藤枝宿→岡部宿 1836年(天保7年)築造され、旅籠の中でも最大級の広さを誇ったのだそう。

十返舎一九『東海道中膝栗毛』では、大旅籠相良屋(実在しない架空の宿)に弥次喜多さんが宿泊していますが、この大旅籠柏屋がモデルとなっているそうです。

 

 

【4日目】は、連続した峠越えに後半はもうウンザリしていました。

宇津ノ谷峠を越えると駿府国静岡市に入ります。古代「蔦の細道」江戸時代「東海道」明治時代「宇津ノ谷隧道」大正時代「宇津ノ谷トンネル」昭和時代「宇津ノ谷トンネル(国道1号東京方面)」平成時代「宇津ノ谷トンネル(国道1号名古屋方面)」『道の博物館』と言われるところで、明治ルートで峠越えしました。

 

 

丸子(鞠子)宿ではお腹を空かし楽しみにしていた『丁子屋』のとろろ汁ですが、生憎営業時間に間に合わず・・・

安倍川に架かる安倍川橋を渡り静岡市葵区に入ってすぐの『かごや』にて安倍川餅をいただきました。

 

 

安倍川餅の名前の由来は、安倍川の上流に梅ヶ島金山があり、金の採掘で栄えていました。家康安倍川に訪れた際、この餅を献上して餅の名を聞かれたところ

「安倍川の砂金をまぶした金粉餅(きんなこもち)です」

とダジャレで紹介したところ、家康は『安倍川餅』と命名したのだとか。

 

【4日目】府中宿で旅を終え、JR東海道本線、名鉄本線を乗継、熱田神宮近くのakippa駐車場まで輪行して帰宅しました。

 

 

  5日目 府中宿~小田原宿 117.5km

 

自宅より約300km離れた東静岡駅近くのakippa駐車場に停め、少し仮眠を取って早朝5:00

府中宿(静岡市葵区)より【5日目】リスタートしました。

いよいよ東海道五拾三次の旅もあと1泊2日で終わりとなります。

 

江尻宿(静岡市清水区)、東海道五拾三次とは縁も所縁もないのですが、アニメ『ちびまる子ちゃん』の聖地巡礼で、作者・さくらももこ先生(2018年53歳没)の母校である入江小学校を一目見たく寄り道をしました。旧東海道より50mほど南に入ったところにありました。

 

 

江尻宿(静岡市清水区)→興津宿(静岡市清水区)と進み、由井(由比)宿に行くには難所・薩埵峠を越えなければなりません。

現代では、国道1号バイパスに歩道があるので、わざわざ自転車で未舗装路を担いで上るのも旧道にこだわっているからです。

 

 

廣重画『東海道五拾三次之内・由井』に描かれた場所からは雲が多く富士山を拝むことはできませんでしたが、それでも駿河湾や普段仕事で走行している国道1号バイパス東名高速を見下ろすのはなんだか不思議な感覚に陥りました。

 

 

由比本陣公園内には「東海道廣重美術館」や明治天皇が三度訪れ休憩された「御幸亭」の再現建造物などがあり、東海道の歴史について学ぶことができます。

 

 

蒲原宿(静岡市清水区)と吉原宿(富士市吉原)の中間点、富士川に架かる富士川橋を渡ります。

すぐ近くに富士山がそびえているはずなので、常に左を見ながら自転車を漕いでいましたが、夏場に見ることは難しいですね。

 

 

江戸から京に上る際、富士山は常に右手に見えているものですが、吉原宿は髙波や津波の被害を受け、江戸初期・元吉原宿江戸中期・中吉原宿江戸後期・吉原宿と幾度となく移設を強いらされ、ルートが変更になったことで左に富士山が望める「左富士」スポットが景勝地となったのだそうです。しかし生憎、雲に覆われて見ることができませんでした。

 

 

原宿(沼津市原)を過ぎ、千本松原に寄り道をして沼津宿(沼津市大手町)にて、前職からお付き合いいただいている取引先の社長にお寿司ランチを御馳走いただきました。

この日は「沼津夏祭り」、自転車を押しながらお神輿など祭りを楽しみました。

 

 

沼津宿(沼津市)→三島宿(三島市) 東海道三社三嶋大社に参拝しました。熱田神宮(名古屋市熱田区)、知立神社(知立市)と制覇したことになります。

 

 

三島宿→箱根宿の上りも旧東海道にこだわり石畳を懸命に上ります。

もうすぐ山中城跡(小田原城の支城)に到着です。

 

 

日没間近にようやく箱根関所跡に到着。

復元施設ではありますが、かなり忠実に再現されていました。

営業時間外だったので、ほぼ素通りとなってしまいましたが、いつかは再訪したいと思います。

 

 

真っ暗闇の箱根峠下り(東京方面)を自転車で旧東海道ルートを辿るのはもはや自殺行為といえると判断し、遺憾ではありますが、明治の東海道でもある県道732号湯本元箱根線の舗装路を下りました。

そんなことで小田原宿もほぼ素通りとなってしまい、酒匂川に架かる酒匂橋で旅【5日目】を終えました。

 

 

今宵のお宿は、快活クラブ小田原鴨宮店。

東海道より約3km離れているので、本当は快活クラブ平塚宮松店まで行ければ良かったのですが、さすがに夜間の箱根峠を下ってきたことで真夏熱帯夜だったにも関わらず身体が冷え切ってしまい温かいシャワーを少しでも早く浴びたいという一心でした。

 

 

  6日目 小田原宿~江戸日本橋 90.6km

 

とうとう旅も最終日【6日目】

お江戸日本橋まで距離も100kmを切っていて峠もなく平地走行となりますが、都市圏特有の交通量に気を付けないといけません。

 

小田原宿→大磯宿 相模国総社・六所神社(中郡大磯町)にて、今日の道中安全祈願に訪れました。

 

 

大磯宿→平塚宿に向かっていると、廣重画『東海道五拾三次之内・平塚』に描かれている

高麗山(こまやま)の横を通りました。

朝鮮半島より渡来人が住み着いたことが地名の由来となっています。

 

 

何度も言いますが、強いて言えば太平洋沿いの東海道ですが、ほとんど海を見ることがありません。

原宿(沼津市)ではルートを外れ千本松原まで寄り道をして駿河湾を眺めましたが、三島宿箱根宿箱根峠上りで背景に見た以来の海だったと思います。

小田原宿大磯宿あたりでも江戸時代であれば海が見えていたのかもしれませんが。

 

 

平塚宿(平塚市)→藤澤(藤澤)宿(藤沢市) 遊行寺(旧名:清浄光寺) 藤沢市内を一望できる高台に建つ寺院で、箱根駅伝の難所・遊行寺坂の名称にもなっています。一度訪れたかった寺院だったので念願叶いました。

 

 

戸塚宿(横浜市戸塚区)→保土ヶ谷宿(横浜市保土ヶ谷区) 旧東海道とは直接関係はないのですが、戸塚大踏切も現代の旧東海道の旅には欠かさない場所だと思います。

 

 

箱根駅伝往路2区の難所・権太坂(横浜市保土ヶ谷区)。

旅人が老人に坂の名前を尋ねたところ、自分の名前を聞かれたと思い「権太」と答えたというなんともユニークなエピソードが残ります。

 

 

保土ヶ谷宿(横浜市保土ヶ谷区)→神奈川宿(横浜市神奈川区)

坂本龍馬の妻おりょうが住み込みで働いていた料亭田中家。

 

 

神奈川宿川崎宿 旧東海道とは直接関係ありませんが、戦前から現存するJR国道駅

 

 

川崎宿(川崎市川崎区)→品川宿(品川区)鈴ヶ森刑場跡

 

 

高輪大木戸跡

江戸の南出入口であった大木戸の石垣が東京大空襲の戦火を逃れ現存されています。

2020年(令和2年)に開業した高輪ゲートウェイ駅の由来になっており、JR東日本は「この地域は、古来より街道が通じ江戸の玄関口として賑わいをみせた地であり」と発表しているのです。

 

 

銀座通りを抜け、京橋のオフィス街あたりより見えてきた「日本橋」の銘板。

どんどんと近づくにつれ、嬉しさ半面「もう旅が終わってしまうのか・・・」という寂しさとのジレンマに陥りました。

 

 

10年以上前にヤフオク7,500円で落札したこの旅の大切な相棒ミニベロ。

安全無事にゴール日本橋までお付き合いしてくれてありがとう!

 

 

東海道五拾三次に纏わるデータベースを次回ブログにまとめ、

最終回としたいと思います。

 

続く・・・