江戸時代に整備された五街道の1つで、
江戸日本橋と京都三条大橋を
北回り内陸経由で結ぶ
中 山 道
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※ 画像は、Wikipedia「五街道」より引用。
現在の都府県では、
東京都・埼玉県の武州路
群馬県の上州路
長野県の信濃路・木曽路
岐阜県の美濃路
滋賀県の近江路
を経て京都府
に該当する地域を通り、
69の宿場を通過することから
中山道六十九次
The sixty-nine stations of The Nakasendo
と呼ばれています。
1601年(慶長6年)徳川家康による宿駅制度が整備された頃は、「中仙道」と称され、
1716年(享保元年)8代徳川吉宗により「中山道」と書くように改められました。
当ブログでは、知名度の広い「中山道」に統一することにします。
東海道の公称距離495km・宿場53ヶ所に対して、中山道は公称距離535km・宿場69ヶ所と40kmほど長く宿場数も多い。
海側の東海道は川越えの難所や行き来を取り締まる関所も3ヶ所あるのが特徴で、山側の中山道では川は上流なので川幅も狭く、川止めというリスクは少なかったものの木曽や信濃の険しい山岳地帯があり、特に冬季の自然環境も厳しい。
諸国大名を年一回江戸に参勤させる参勤交代では東海道が好まれたのに対して、庶民は中山道を好んだのだそうです。
中山道の方が「旅籠代が3割ほど安い」、「関所や川越えが少なく交通費が安い」というのが理由にあげられます。
「入鉄砲出女」といって江戸に持ち込まれる鉄砲と、江戸から地方に出る江戸在住の大名の妻の取り締まりも東海道の方が厳しかったことで、特に女性は中山道を好みました。
去年は東海道を走破してその当時の時代背景、栄枯盛衰の歴史を知ることができました。
中山道が栄えたのもまさに同じ時代であり、当時の登場人物も重なることが多いことだろう。
東海道も中山道もルートは違えど京都三条大橋~江戸日本橋をスタートゴールとするという共通点が、冒険心を掻き立ててくれるのです。
運送業を営む傍ら普段は人並み以上に車に乗っているので、高速道路、トンネルやバイパスといったモータリゼーションの発展にあやかり快走路を走行しているわけですが、ちょっと横道に逸れれば忘れられた旧道が現存しているのです。
そんな新旧の「道」の歴史を紐解くことができたらと考えています。
中山道ゆかりの人々
❶ 東海道五十三次の旅では、江戸時代の風景浮世絵師として欠かすことのできない歌川広重、そして広重に加え中山道六十九次の旅では葛飾北斎の弟子・渓斎英泉(けいさいえいせん)の描いた当時の宿場町と現代を対比して文明の発展を比較してみたいと思っています。
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※ 画像は、Wikipedia「木曽海道六十九次」木曾街道 續ノ壹 日本橋 雪之曙より引用。
❷ 1846年(弘化3年)に仁孝天皇の第八皇女として生まれた
和宮親子内親王(かずのみや・ちかこ・ないしんのう)
明治天皇(1852-1912年 59歳崩御)の叔母にあたります。

※ 画像は、Wikipedia「和宮親子内親王」より引用。
江戸と京都の間で政略結婚を行う「公武合体」のため、幕府より朝廷に14代家茂の妻として降嫁(こうか)が願い出されたのです。
天皇家の歴史において皇女が武家に嫁ぐのは前代未聞のことであり、反対する国民も多くいたのだそう。
そんな和宮(当時16歳)が京を経ち、江戸に降嫁した行幸も中山道を歩んでおられます。
最も東海道は河留めによる日程の遅延や降嫁反対の妨害の恐れが多いというのも理由の一つだったようです。
1862年(文久2年)2月11日、江戸城内で家茂、和宮共に16歳で婚儀が行われたのですが、
その後二人とも短い生涯だったのです。
1866年(慶応2年)、夫家茂大坂城にて病没(享年20歳)
1877年(明治10年)、和宮(家茂死後は静寛院宮)療養先のにて病没(享年32歳)

※ 画像は、Wikipedia「和宮親子内親王」より引用。
旅の相棒
ヤフオク10,000円で落札したオフロード折りたたみ自転車
20インチ 1×7段変速
東海道では、オンロードミニベロ小径車で旧道五十三次を走破しました。
箱根峠越え一部は日没のため旧道をトレースできませんでしたが、それ以外はすべて旧道を自転車で走行しました。
中山道については事前調査をしている限り、オンロード自転車では困難な未舗装路が多く、さらに自転車では困難な獣道、山道、階段など多くあるようなので自転車だけでなく区間によってはマラニック(観光マラソン)も行程計画に入れようと思っています。
次回、
【1日目‐①】
に続く。


