前回 【6日目-⑤】 

戸塚宿~保土ヶ谷宿

 

 

 

 

国道16号八王子街道松原商店街入口の信号を渡ると、賑やかな洪福寺松原商店街の中が旧東海道となります。

近年シャッター商店街が増えている昨今、非常に活気があって賑やかな商店街は珍しいですよね。雑踏の間を拭って進んで行きます。

 

 

 

浅間下公園より横浜環状1号線に合流し、首都高神奈川2号のガードを越えすぐ左斜めに進みます。

江戸時代はここが海岸沿いで、右の横浜環状1号線は海だったとは信じられないですよね。

 

 

 

時刻 13:00(出発して7時間)

サイコン距離 58.6km

 

 

マンションやテナントが入る通りを進んで行くと、左手に「神奈川宿歴史の道」という案内板にかつての宿場町の見取り図が描かれていました。

東海道神奈川宿の歴史散歩 / igelさんの横浜市 中央エリアの活動日記 | YAMAP / ヤマップ

 

 

すぐに横浜市道六角橋第394号線に架かる上台橋を渡ると神奈川宿京口に入るようです。

 

 

 

3番目 

神奈川宿『台之景』

三条大橋より467.9km/日本橋まで27.5km

神奈川 台之景|歌川広重|東海道五拾三次|浮世絵のアダチ版画

※ 画像は、アダチ版画さんより引用。

 

 

江戸時代には神奈川湊を要する港町として栄えていたが、1858年(安政5年)、日米修好通商条約が締結され開国以降、横浜港が開港し商業の中心が変わってしまった。

本陣 2、 脇本陣 0、 旅籠 58

 

 

 

台地の地形なので緩やかに上り坂を上っていき、次第に下り坂に入ると右手に、

1863年(文久3年)創業、老舗料亭『割烹 田中家』(旧旅籠さくらや)

関東大震災や横浜大空襲もくぐり抜けた建造物です。

 

 

 

 

 

坂本龍馬の妻・楢崎龍(通称:おりょう)が、龍馬亡き後、住み込みの仲居として働いていたのがこの『割烹 田中家』

歴史 | 横浜 割烹 料亭 田中家

※ 画像は、田中家公式HPより引用。

 

 

1867年(慶応3年)、京都河原町・近江屋で龍馬が暗殺された近江屋事件以降、おりょうは転々とし1874年(明治7年)この田中家に住み込みで働きだしたのだそうです。

龍馬曰く、「まことにおもしろき女」の晩年は、当時の時代背景では、「おもしろき」≒「異端児」とも捉えられ、決して万端ではなかったようです・・・

 

 

老舗料亭『田中家』公式HP

 

 

 

廣重画神奈川宿『台之景』に描かれたのが、この坂となります。

現在でも横浜市神奈川区台町(だいまち)という地名で、かつては左側(東向き)に神奈川湊があった眺望の素晴しい景勝地だったそうです。

 

 

 

環状1号に合流し丁字路を左折、すぐの青木橋交差点を右折、JR京急に架かる青木橋(跨線橋)を渡ります。

 

 

 

地図で確認してみると、従来の東海道は西の台町より東の宮町商店街まで直線で繋がっていたわけですが、1870年(明治3年)青木橋竣工後、L字に迂回しなければならなくなりました。

 

 

 

青木橋の北西高台に本覚寺(ほんがくじ)

1859年(安政6年) 神奈川条約(横浜開港)に基づき、かつてはアメリカ領事館が置かれていました。

 

 

 

青木橋を渡りすぐ左手に、京浜急行電鉄・神奈川駅

県名を冠している駅名なのにお隣の横浜駅と比較するとかなりこじんまりとした駅舎となっています。

 

 

 

すぐ北側近くにある州崎大神の案内板。

源頼朝が征夷大将軍に就任する前の1191年(建久2年)に造らせた歴史ある神社のようですが、先を急ぐので見送ることにします。

 

 

 

第一京浜国道15号に合流し左折、進路を北東に変えます。

1885年(明治18年)の国道指定により、日本橋~横浜港に至る1號國道(いちごうこくどう)が制定されました。現在の国道1号起点・日本橋~終点・梅田新道までの765kmですが、初代国道1号はかなり短かったようです。

ちなみに前身の1號國道の名残で、「一国(いちこく)」と呼ぶのだそうです。

 

 

 

特に遺構もなく淡々と「一国」を進み、左手に京急神奈川新町駅あたりが神奈川宿江戸見附だったそうで、これで神奈川宿も終わりです。

 

 

 

600形車両が通過していきました。

京急の車両も名鉄同様に真っ赤な車体なのですね。

 

 

 

3番目神奈川宿を後にして、次は2.5里(9.8km)先2番目川崎宿に向かいます。

 

 

 

次回、

【6日目-⑦】

に続く。