前回 【3日目-⑨】
白須賀宿~荒井(新居)宿
地図左端、現在地 湖西市新居町新居
浜名湖から遠州灘まで流れる浜名川には浜名橋が架けられていましたが、
室町後期1498年(明応7年)の明応地震、1510年(永正7年)の永正地震と二度の津波に襲われ海岸沿いが決壊してしまい「今切(いまぎれ)」と言われました。
江戸時代に入り、『今切渡し』の湖上船路を設営したので、この先の旧東海道ルートは湖上となるので国道1号を自転車で走行することになります。
まずは浜名川に架かる浜名橋を渡り、今切渡しならぬ今切陸路・国道301号を進みます。
左手に、JR東海道本線・新居町駅
西浜名橋を渡ります。
中浜名橋を渡る手前で、湖西市より浜松市西区に入りました。
中浜名橋を渡り切ると弁天島に入りました。
弁天島は、後程紹介する廣重画『今切真景』の左下に波除け杭が打たれているのですが、その杭に土砂が堆積されて出来たのが弁天島なのだそうです。
国道1号・浜名バイパスには、橋梁全長631mの浜名大橋が架かっています。
1976~2004年までは有料でしたが、2005年(平成17年)より無料開放されています。
普段仕事でよく利用している浜名大橋ですが、
「今地震が起きたら完全に海の中に堕ちてしまうんだろうな・・・」とヒヤヒヤしながら、制限速度+αで走行しています。
JR東海道本線・弁天島駅前交差点より右斜めに進みます。
弁天橋を渡ります。
北側を見ると、奥に東海道新幹線、手前の赤い橋は、国道301号・弁天大橋です。
弁天橋を渡り切ってすぐ右手に、北雁木跡(ほんがんげあと)
北雁木は、天皇や大名、身分が高い人用の渡船場でした。
「雁木」とは階段状になっている船着場のことで、本来は「がんぎ」と読むのですが舞阪では「がんげ」といっているのだそう。
北雁木より200mほど南下していくと、
本雁木跡(ほんがんげあと)
こちらは一般の人用の渡船場なので、舞阪宿に到着したことになります。
『今切渡し』の運航時間は、朝4時始発船~夕方4時最終船だったそうです。
復元だと思いますが、船着場までは石畳が敷かれていて雰囲気が出ています。
ちょうどこの時間満潮だったので、淡水湖の浜名湖に海水が入り込んでいるのでしょうか?
写真右側の石垣は江戸時代のもので、左側の白い石垣は修復した部分だそうです。
ちなみに、南雁木というのも本雁木の南側にあったようで、物資運搬荷物の積み降ろしに使われた渡船場だったそうですが、今回は見送りました。
30番目
舞坂宿『今切真景』
三条大橋より230.5km/日本橋まで265.0km
※ 画像は、アダチ版画さんより引用。
先ほど通過した荒井宿(新居宿)までの1里半を湖上渡しをする必要があった舞阪湊を整備する舞阪宿。
宮宿と桒名宿を結んだ七里の渡しは海上渡しですが、佐屋街道や前ヶ須街道など迂回路も存在したわけです。
この今切渡しは必ず渡し舟に乗船しなければ先に進むことができなかったのである意味難所だったのかもしれません。
本陣 2、脇本陣 1、旅籠 28
廣重画『今切真景』、右奥には白峰の富士山、中央の黒々とした連山は実際にはない山だそうですが、浜名湖を誇張するために描いたのかもしれません。
この今切の渡しには今切口から遠州灘の荒波が頻繁に打ち寄せ、渡し船の航行を妨害したため、舞坂側航路に数万本の波除け杭が打ち込まれたのです。廣重の絵にも描かれています。
先ほど紹介した弁天島はこの波除け杭に土砂が堆積され島の基礎になっているのだそうで、もしかすると弁天島をボーリングで掘ると当時の杭が出てくるのかもしれませんね。
本雁木より進路を東に向くと、すぐ右手に
1813年(文化10年)建立、西町常夜燈
すぐ先には、1838(天保9年)建築、茗荷屋脇本陣
1913年(大正2年)に撮影された写真には、役場施設として使用されていたそうです。
※ 画像は、浜松市役所HPより引用。
旧家など歴史遺構はそれほど残っていませんが、なんとなく感じる宿場町風情。
ここまで20宿場以上巡ってきたので、独特と雰囲気を感じることができます。
宿場内をゆっくりと進んで行くと、右手に
1809年(文化6年)建立、仲町常夜燈
しばらく進んで行くと松並木通りとなりました。
資料によるとこのあたりが、舞阪宿東見附(江戸口)なのだそうです。
30番目舞坂宿を後にして、次は2里28町(10.9km)先の29番目濱松宿に向かいます。
次回、
【3日目-⑪】
に続く。