柏原市(かしわらし)は、大阪府南東部、大阪府と奈良県との府県境に位置しています。

 


奈良盆地の諸流を集めた大和川が、金剛・生駒山地を横断して柏原市に流れ込み、そしていくつかの支流に分岐し、大阪湾に流れていきます。

 


約3000~5000年という長い年月、大和川から流れてきた土砂が蓄積されて大阪平野が形成されました。

 

 

※画像は、柏原市役所HPより引用

 

 


つくられた大和川と記述されているのが現在の大和川の本流となります。


正確には人工で作られた川なので、「新大和川」と言った方がよいかもしれません。



当時の大和川は、河内国志紀郡舟橋村より北に向かい、平野川、久宝寺川(長瀬川)、玉櫛川(玉串川)に分流し、淀川に流れ込んでいました。

勾配の少ないなだらかな地形なので、洪水の度に氾濫を起こしていたことだと考えられます。

 

 


 

1704年(元禄17年/宝永元年)わずか8ケ月という短い期間で、治水工事が行われたのです。

しかし、その短期間での治水工事には、立案から構築、実行に至るまで50年以上の歳月がかかったそうです

 





 

時代は遡ること、1650年(慶安3年)中九兵衛(なかくへえ)は長年大和川の水害に悩まされていた現在の柏原市の流路変更治水工事計画の嘆願書を江戸幕府4代将軍家綱に提出。

しかし、幾度となく棄却され、この遺志は九兵衛の子三男の中甚兵衛(なかじんべえ)に引き継がれました。

 

 

父九兵衛の願いを受けた子甚兵衛は、時代が変わり5代将軍綱吉に請願を重ねました。


 

ようやく1703年(元禄16年)に受理され、翌年1704年(元禄17年/宝永元年)に工事を開始し8ケ月で「新大和川」が完成したのです。その時、甚兵衛すでに66歳。

亡き父九兵衛の努力の姿を何歳の頃から目にしていたのかはわかりませんが、父子鷹の偉業であったことに違いはありません。

 

 


電車も飛行機もない時代、大坂よりたった一人で江戸奉行所に再三訪れ、悲願の「大和川付け替え工事」が受理された時、帰路に向かう約560kmの東海道の道のりも天にも昇る気持ちで浮足立ち、さぞかし足早に帰阪したことでしょう。

 

 

 

この「新大和川」の起点である現在の柏原市船橋のすぐ上流には、地滑りで有名な亀の瀬があり、大洪水の災害時には、亀の瀬の土砂も流れ込み川底に溜まり、氾濫を繰り返したそうです。

そして、金剛山より流れ込む石川の合流点であったことも水害を大きくしたことであったと思われます。

 

 

 


前回ブログ、旧河陽・河南鉄道について書きました。

近鉄富田林駅よりJR・近鉄柏原駅まで、河陽鉄道の痕跡である現在の近鉄長野線&道明寺線を辿りました。

 

 

河陽鉄道の歴史を調べていると、大和川付け替え工事(大和川治水工事)の歴史にも目が留まり、柏原駅より次の目的地に向かいます。

 

 

 

 

 

 

Googleマップ 左カーブ:国道25号線と右折:国道170号線のY字交差点。

 
 
 


 

安堂という交差点名の裏に、「大和川治水記念公園」があります。

 

 

 

 

 

 

 

 

「大和川治水記念公園」入口すぐに柏原ライオンズクラブさんが寄与された1703年代大和川流域の地図が掲示されています。

奇しくも悪意かどうかわかりませんが、右下に水害に起きたような大きな湖が描かれています。

 

 

1703年に洪水が起こったのか調べてみましたが、元禄地震(推定M7.9-8.5)しかヒットしませんでした。この地震での大和川氾濫の因果関係はなさそうです。

元禄地震が起こったことで、翌年年号が変わり宝永元年になったのですね。知識が増えました。

 

 

 

 

 

陣羽織を着た中甚兵衛先生の銅像が鎮座されています。

左には丸めた設計図でしょうか?右手の指先は、大和川の下流域住之江の方を指しているように見えます。

 

「さぁ、みなのもの大坂湾を目指して掘り進むぞ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

多くの記念碑や中甚兵衛先生の功績に心打たれた方々が寄贈された石碑などがたくさん置かれています。


 

「大和川治水記念公園」という名の公園ですが、公園とはいえないくらい狭く、わざわざ歩道を狭くして造られたものだと思われます(笑)

 

 

 

 

甚兵衛の後生、大和川付け替え工事が終わった翌年1705年(宝永二年)浄土真宗本願寺派大坂津村御坊(北御堂)で剃髪し、法名として乗久(じょうきゅう)を名乗るようになりました。剃髪の理由はわかりませんが、洪水などで命を落とした多くの人々に思いを寄せていたのではないでしょうか。

そして、大和川付け替え工事もすべての人たちにとって有益をもたらしたものでもなく、流域の土地を失い村が川の底になった方々や「新大和川」をもっても新しい堤防が決壊し氾濫が起こることもあったそうです。

そう考えると、甚兵衛の出家は、バーンアウトだと言え燃え尽き症候群、浮き世離れをしたかったに違いないと思います。



そして、1730年(享保15年)9月20日甚兵衛はこの世を去りました。

平均寿命50-60歳の時代に、92歳という当時としては考えられないような大往生でした。

 



 

午前中に訪れた吉野町上市での伊勢湾台風の氾濫被害、午後より東高野街道石川に沿って路線がある近鉄長野線&道明寺線の歴史、河陽(かよ)鉄道について。

そして、当ブログであった大和川付け替え工事 中甚兵衛の功績と、まったく繋がりのないように思われる散策でしたが、自宅よりドアtoドアで8時間の行程は非常に有意義で価値ある時間であったことを備忘録として残しておきたいと思います。

 

 

 

最後まで閲読いただき、誠にありがとうございました。