私が東京水産大学を5年かかって卒業して都落ちして実家に帰り近所の中学生10人くらい教えているところにこの田中君が訪ねてきました。歩いて襟10分ぐらいのところに大きな墓地があり彼の親友が渡米直前に交通事故で亡くなりその墓参りに訪れた帰り岩谷はどうしているか実家に寄ったというわけです。彼とは高校の同級ではなく美術部で一緒でした。彼は小学校のとき腎臓結核で2年休学し実際2つ年上で美術部でも難しい理論をまくしたてそれほど近しくはしてなかった。彼は早稲田の法学をでて東京の法律事務所で研修し実家に戻って司法試験を一人で勉強していましたが悪友が多く慶応の経済をでて外務省の国家試験をやはり家で勉強している同級生、親が全国で初めてスーパーマーケットの理論を実践し2年連続坪当たりの売り上げが一位の同級生と磐梯熱海温泉で徹夜のマージャンをやったりで外交官志望は父親に2階から一切合切放り出され追放されました。父親は旧制中学を出ただけで高等文官が受かり満州の郡知事にまでなり敗戦のときは上海で大きなホテルのオーナーだったそうです。帰国後金貸しになって財をなし書や墨絵をたしなみ江戸時代の日本刀を何振りももっていた趣味人で私は結構可愛がられました。田中君と7年ぶりで再開以来私の家か彼の家または駅前の友人経営の画廊喫茶とで週2,3回あってスーパーの同級生から冗談ですが「お前らホモか!」と言われるくらい一緒でした。私が野宿旅行で中耳炎になった時も毎日タクシーで街の耳鼻科に10日も通ったすべての金も彼が用立てました。その野宿旅行も絵描きを止めるかつづけるか考える旅で社長をやってる従兄に作品を¥25,000で買わせました。当時の、大学出の初任給が¥10,000くらいだったと思います。それで秋葉原でリ、ュック、雨合羽、シート、寝袋、飯盒など野宿旅行を揃えました。彼は私が必要な金は大抵揃えてくれました。友人が俺が貸したと言いました。父親の形見の銀時計を担保にしたりしてたようです。その彼が駅前の画廊喫茶の奥さんの妹婚約しました。喫茶店でも偶然よう会っていたので自然のなりゆき彼女の父親は郡山一の駅弁会社のオーナーで話はスムーズに決まりました。当時田中君は土地の資本で新しいデパートが開店間際でそこの人事課の課長待遇で働いていて本来腺病質な体でした。それが毎晩夜中の1時頃まで働いて何回か胃から出血があって休んだこともあったそうですが上役しか知らなかったようです。2週間後二人が結婚する日取りも決まり新婚生活を送る新居のアパートを一緒に捜す約束の日彼女が死んでいる婚約者を見つけます。吐血した血が呼吸腔に入っての窒息死でした。朝までバッハの管弦楽組曲のLPがカスカスッと回ってクレーの画集が開いてあったそうです。実に彼らしい死に方でした。私がそんなことがあった4年ご家内の電電公社で合理化の一端退職金が3倍支払うというニュースが入ります。母親は小学校の年金がありあと3年勤めてからと勧めましたが若木のいたり、それと田中君がいない郡山は砂漠のようでした。そんなこともあり軌道に乗った児童絵画塾と英語塾を4年で止め準備も整わないまま3ケ月で日本を後にしました。一番精神的にダメージを受けたのは家内です。外国で生きる語学力も無かったから着いて間もなくパニックになりました。しかしよく30年堪えたと思います。私の頑固な生き方家内を痛めつけ反面今日何とか版画家として通用できるようになりました。もし私が版画家になれなかったらフランスで自殺したでしょう。母親を苦しめその末に自殺、これほどの親不孝、配偶者不孝は無いでしょう。このことを思うといつもすれすれセーフと実にほっとします。「神は我を見捨てなかった」と。あの世で80年ぶりくらいで田中君に再会できるだろうか。17回不自由な体でパリにきて毎回作品2枚シートで50枚買ってそのあと画廊を開いた小人の塚原君も待っているだろうか。田中君が1977年に急逝して57年当時郡山で唯一クロワッサンをつくっていて画廊喫茶もやっていたパン屋で「クロワッサンとコーヒーは合うネ」耳に聞こえます。
先日近所に落雷があってテレビに閃光が走り消え2時間半でテレビも電気もつきましたがその後近所に住む別の姪がエアコンがあまり効いてないと言いました。寒暖計を見たら25℃でした。落雷でやられたのかもしれません。15年以上前にもっとすごい落雷があってエアコン3つ駄目になりましたが全部保険がかかっていて1台¥25,000が全部只で直してもらいました。目下エアコンの故障が多く9月2日まで待たなくてはならないので1週間屋根裏で過ごし寝ます。屋根裏のエアコンが機能してよかったです。もう一つ2階の和室にありますが今は洗濯物と衣類の山で寝るどころではありません。
2,3日前テレビでアラン.ドロンが88歳で亡くなったことを報じていました。今から2,3年前3,40分独占インタビューがありいい顔の老人にんっていました。若い時彼とベルモンドは二大人気スターでベルモンドは父親が有名な彫刻家、息子はF1のレーサーまあ上流の家柄でドロンはむしろ貧しい家の出で4年間ベトナムで兵役をつとめました。後年それが俳優に大いに役に立った、徹底的に服従することを学んだといいました。女優との間の息子は父親の映画を地でいくギャングを実際やって豚箱に入れられたり彼自身付き人を殺したともいわれましたが当時大統領ポンピドー夫人の計らいでもみ消してもらったなど週刊誌で報じられました。ベルモンドはスキャンダルもなく二人は対照的です。若い時はドロンに全く興味はありませんでしたがこのインタビューから興味持つようになり年取ってどんな顔になるかと思っていましたら私が思っていたいい顔になりました。彼は結構いろんな友人の経済的にも面倒みましたが皆裏切られたと語りました。唯一裏切らないのは犬だけで彼の好んだ脚の長い獰猛な種類はわからないがすでに亡くなった犬にはそれぞれ墓がありそれらの中央に彼が死んだあと入る立派な墓石が用意してあります。最晩年は一人だったのか世話する愛人がいたのかわかりませんが人間を信用できず犬だけ愛して逝ったのは彼らしくていいです。彼は親分肌というより孤独な殺し屋といったタイプで彼のような役者は出ないでしょう。彼は賞には恵まれませんでした。それでフランスの映画界は彼のために創設した特別賞が授与されました。賞というものに恵まれない優秀な小説家、アーチスト、音楽家などいるものです。太宰治も芥川賞をもらいたくて画策したと言われます。ドロンは「太陽が一杯」で金持ちの友人のヨットの雑役にやとってもらい美人の恋人や贅沢なもちものに嫉みジェラシーの感情をよく表現しています。彼の出自からきている感情なのかも知れません。後年世界の巨匠ヴィスコンテの名作「山猫」でドロンのフィアンセと彼の叔父役のバート.ランカスターが踊る場面にやはり嫉みとジェラシーを滲ませた秀逸な場面があります。あの悪役でデビューしたランカスターがヴィスコンテに起用されると黄昏が迫る貴族社会の最後の威厳と斜陽への寂しさをにじませた素敵な老貴族を演じています。若い時は作品そのものを見評価しましたが今は素敵な役者を見ていただけでいいです。頭が軟化すると何でもよくなります。そのうち「地下室のメロデー」「シシリアン」なぞやらないかと期待してます。
帰国して25年初めて落雷でテrビの画面に閃光がはしりテレビが駄目になったと思いました。丁度甲子園を見ていました。研師の友人に来てもらって2時間半ぐらいでアトリエの配電盤のブレーカーを元に戻したらテレビが点いて甲子園が画面に写り新しいのを買わなくていいとほっとしました。2時間ちょっとエアコンが止まって熱中症になり毎日調子が悪く甲子園も半分寝て見てます。明後日は決勝でなんとか見たいです。
今日は1865年だったかに横浜でお生まれになった18世紀に写真技術が発明されたために途絶えてしまったメゾチントを復活された長谷川潔先生のことをご紹介します。先生には便箋に2枚二度お手紙を頂きました。先生は1919年ニューヨーク経由でフランスに入られました。以来亡くなられた2081年まで一度も帰国しませんでした。第二次世界大戦が1941年に始まり政府が最後の船を用意して先生はフランス人の奥さんと連れ子の息子と乗船しましたが3日後下船しました。敵国そして白人戦時下の日本で困難が予測されたのでしょう。横浜銀行の支店長だった父君もお亡くなりになっていたのでしょう。戦時中は孤独と蔑視で日中郊外の自然をスケッチその中に広い野原の真ん中に大きな一本の木がありスケッチしています。ご自分を重ねられたと思います。戦後はレジョンドヌール勲章、文化功労章を受けられ有名ではあっても経済的にはめぐまれませんでした。先生は文章で版画に没頭したため経済の方は疎かになって終わったと書いておられます。私が先生を知ったのは細川さんといって昼は免税店で働き夜は日本から来るいろんな人を案内していました。ある時画商を案内し長谷川を集めろとアドバイスをうけました。それを信じて私が彼女を知り合ったときは50点それもよいものばかりでした。彼女は応援者がでて当時の東京銀行の近くに画廊、その真向いに最初フランスレストラン後日本レストランになり自分の画廊で先生の50点の展示しかもよく見てもらおうとガラスを入れないで展示、私は何回も会場に行き観察しました。その後そこで会場を只にしてもらって個展をし結構売れました。パリに有名なカリタ美容室があり細川さんはマダムカリタに可愛がられ私の作品大きいの3点買ってくれました。細川さんはマダムカリタが亡くなってムッシューカリタを面倒みて結婚を申し込まれ結婚し美容室と化粧品工場を資生堂が買って沢山遺産が入ったことでしょう。彼女は人に尽くすタイプの人です。私より2歳くらい上です。私が1980年にモンパルナスで個展した初日に浜口先生と待ち合わせをしていたらしく小一時間会場に居て話していたので買ってくれるかと思いましたが買いませんでした。画廊主がポラロイドで先生との写真を撮ってくれ今もアルバムに貼ってあります。浜口先生の電話番号も細川さんから聞きました。細川さんを知ったのは郡山の旋盤メーカーの社長で当時フランス一のメーカーに社員を2,3人派遣していて細川さんをガイドとして雇って偶然日本レストランで紹介してくれました。それが浜口先生が保証人だったり長谷川先生のコレクターだったりやはりついていたのです。1980年は絶頂期でした。1ケ月の個展がそのまま2ケ月に延期になり3ケ月目も大体そのままでした。その年はケルン、モントリオールのケベック大学でメゾチントのデモンストレーションで1ケ月滞在、そして10年ぶりに3ケ月の帰国、このようなことは人生ではこれだけです。1970年代の10年は人生のゴールデンエージです。今思い出しても凄い人との出会いにみちみちています。高
1978年だったか細川さんが彼女の画廊で長谷川先生を紹介してくれました。お昼が画廊の真向いの日本レストランで食べそのあと画廊で持参した30点を見て頂きました。一枚一枚手寧にご覧にんって「刷りが良いね」とおっしゃいました。そして昔は銅版インクメーカーが5軒あったが一番よくないシャルボネルが残ったとおっしゃいました。先生は「今でも仕事はできるが雑事が多く時間が無いともおっしゃいました。奥さんの50代の息子はアル中で目が見えず奥さんは息子の世話で先生がもしかしたら買い出しと料理をやってらしたのかも知れません。先生は1981年に89歳で亡くなられたと記憶しています。パリの北東のピエラシェーズでお骨になりました。50人ほどの参列者で日本からきた甥と何十年もフランス在住の画家が挨拶を流暢なフランス語でびっくりしました。1919年以来一度も帰国することなく心に多くを秘め堪えて一生を終えた先生に感動を覚えました。長谷川潔、浜口陽三の両巨匠は末永く残るでしょう。