私に思い出に残る二人の瞳がある。一人は1971年の7月に郊外からパリのど真ん中のマレー地区に移って間もなく我々の新居から

3,4軒離れたところに小さい画廊がありそこに入ったらフランス人の老女性が経営者だった。そこに素人画家と称する私より十歳よりちょっと上か思しき背は低いががっしりした鷲鼻が特徴の男性もいて歓迎されました。あとで知ったのですが二人ともユダヤ人です。どういうわけかそのムッシュウは明日の昼彼の家で昼食に招ぶというのです。その時他人に気をつけるなんていう疑いの気なんておきず承諾しました。翌日彼の家を訪ねようとしてハプニングが起きました。鍵を家に置いたままでドアーをバチンと閉めてしまいました。それでも約束の時間に遅れてはと出かけました。彼の家で昼食をご馳走になりながら鍵のことが気になって食事も味がわからないほどでした。食事をご馳走になって帰るとき実は鍵を入れて閉めてしまったとなんとか説明しました。パリのアパルトマンの鍵はバチンと閉めると開きません。しかしその時点では隣人に鍵を借りるとすぐ開きます。これができるのは百年以上前の古いアパルトマンにかぎります。これは長い間の知恵です。しかし鍵を回すと隣人の鍵では開けることはできません。彼は了解し警察の派出所で鍵屋の電話番号を聞いて呼んでくれてものの5分もしないで開けてくれました。以来家内と各々鍵を所有して外出には二組持ってでるように30年心掛けました。以来鍵によるプロブレムは一度どこかで鍵束全部おとしたことが一度ありました。食事をご馳走してくれた彼は3年前までハンドバックのデザインと3人ばかり職人を雇って制作をして生活していましたが素人ながら長年絵を描いていてプロの画家の友人を沢山もっていて毎週家に沢山の画家たちを食事に招んでいました。しかしハンドバック製造を止めプロを宣言した途端誰も近づかなくなったと本人が言いました。そんな寂しいなかアジア人のアーチストと出会い友達になれるかと期待を込めて招待したと思います。以来毎週水曜日の午後私だけ彼と画廊に行ったり美術展に行ったりポルノを見たことないと言ったら「俺は見るよりやった方がいい」と言いながら連れていってくれました。彼によってフランスの生活考え方男女のことなど大変勉強になりました。彼は13,4のころ旅芸人だったオリジンロシア人の両親に見捨てられ公園に寝ていたそうです。見かねて長兄夫婦が引き取って育て16歳のときにはハンドバックのデザイナーとして一流店に売っていたそうです。両親に捨てられた時の名残りか彼の瞳の奥の奥に悲しみを時々かい間みることがありました。欧米人に日本人に無い悲しみというか孤独というかそれは印象的でした。大げさに言ったら個人主義(群れて行動しない)の欧米人は皆このような悲しみを持っているのかもしれません。以来彼とは20年近く70歳くらいの時直腸ガンで亡くなるまで付き合いました。10年くらい人工肛門をつけていました。彼は私に奥さんにも息子にも話さないことを話しました。私と同じ歳の一人息子がいて郊外に大きな衣類とスポーツ関係の店を持って裕福で住まいには両親がいつでも来て自由に滞在してもいいように寝室トイレ風呂を作ってくれましたが一度も泊まったことは無いと言いました。息子に甘えすぎないよう気をつけていると言いました。このような息子は今時日本にはいません。週1回郊外からパリに仕入れに来ると毎回両親をレストランに招んでくれます。彼が亡くなったあとは母親一人になっても招んでいました。息子家族が1ケ月コルシカ島に夏のバカンスに行ったときは毎日コルシカ島から両親に電話をかけて寄こしました。そして父親が亡くなったあと彼らの借家が大きすぎたので母親のためエレベーターのある現代的な殆ど新しい住み心地のいいアパルトマンを買いました。傍から見ても本当に親孝行でした。彼は私に言いました。息子を育てるとき決して怒ったり怒鳴ったりせず何ごとも納得いくまで説明したと言いました。子供のころ両親に見捨てられたことが影響していると思います。彼は世界的に有名なブラックユーモア漫画家、映画やアニメ作家舞台装置、最後のころは劇の演出もやった私と同じ歳のやはりユダヤ人のロラン.トッポーを紹介してくれました。彼はトッポーの彫刻家の父親と友人でトッポーがエコール.デ.ボザールの生徒だったとき毎週彼のハンドバックのアトリエに鉛筆のデッサンを何十枚かもってくるので毎回何枚か安く買ってやったそうです。彫刻家の父親も貧乏でトッポーもいつも金が無かったそうです。トッポーは仕事のし過ぎか早くに亡くなりました。2回ほど話しましたが全く水平の人間の位置で高見から物申すなんて態度は微塵もありませんでした。メゾチントのこともよく知っていまし

もう一人は今も付き合いの続いている家族のようなルーシーです。1971年5月にパリに着いて2年後に彼女と知り合いになりました。サラエボに私のために画廊を開いたトルコ人と彼と同じ歳のイギリス人が外国人がフランス語を学ぶ有名なアリアンス.フランセイズの同級生で意気投合して二人で大きなスツデイオを借りウイークエンドにはチェルリー公園で風船をしかも普通の五倍くらいのを五倍で売ってその収益で若いフランス人の銀行員やサラリーマンを土曜の夜20人かそれ以上を彼らの所に招びビッフェカンパニャール(立ち食い)で二人がいろんな料理を2,30人分全部作ります。その中にルーシーがいて家内がモデルに頼み以来今日まで40数年になります。今でも1ケ月半に1回位電話で話します。彼女と知り合ったとき彼女の瞳の奥がやはり前述の彼と違った悲しみを湛えていました。1978年ごろ制作した「悲しき道化」は彼女の顔と瞳が主題です。後で知ったことですが彼女は父親がやっていたベトナムのゴム園で生まれ4歳の時ベトナムがデイビエンフーの戦いで勝利し、フランスが負けルーシー一家はアフリカのコンゴーに移住、そこでピーナッツのプランテーションをやり軌道に乗りかけたころコンゴ動乱が起きる兆候がはじまります。ルーシーは5人兄弟の末っ子両親は子等の安全を計ってニースの親戚に5人の子を預けます。そして間も無くコンゴ動乱が勃発し母親が殺されます。その1年後に父親が心筋梗塞でコンゴで亡くなります。5人の子等は孤児になりますが末っ子のルーシーは12,3歳であとはそれぞれ社会に巣立っていきます。ルーシーはパリの親戚からハイスクーに通い卒業するとロンドンで住み込みのお手伝いをやりながら英語学校にやってもらうという制度で2年英語の資格をとりフランスに戻りアメリカ最大のcitibannkに入ります。入ったごろ同僚の中でルーシーは評判になります。半年間勤めに着る洋服が全く同じものでした。夜洗濯しては風呂場につるすと朝にはワンピースなどは乾きます。それを着て出社半年間全く洋服をかえないでしかも世界有数の銀行です。私たちが知り合ったのはルーシーが銀行に勤めて5,6年はたったころと思います。でもまだどこか彼女の瞳はすごい孤独感をかい間見せていました。最後のころはその孤独はありませんでした。何十年もかかって孤独の質が和らいだのでしょう。「悲しき道化」はよい記念です。この二人の瞳はいつも焼き付いています。先日トルコ人と大きなスツデイオをシェアーしていたイギリス人から自分で書いた「フランス、脚のむまま気の向くまま」というエッセーが送られてきました。メールでなく手紙と我々の写真を入れて一度泊めてもらったケンブリッジの家宛に礼状を出したら1ケ月後戻ってきました。彼のメールアドレスはあるのか使ったことないので礼状出せないかと心配でしたがありました。さっそく1週間前礼状をだしました。彼は一人で豪華本の企画製本販売を一人でやってもう30冊ぐらい出版し13、4年も前から品川の豪華本専門店と取引があり挨拶に10年前に来日した折私たちの所に一泊していきました。恐らく利益が上がってケンブリッジの古い可愛い小さな裏に100坪くらいの菜園がある家を売ってもっといいところに移ったのでしょう。彼は独身で恋人を見たあことはありません。ホモでもありません。彼の料理はプロです。ワインも自分で仕込みます。私の外国人の友人たちは皆ユニークな生き方をしています。彼は今70くらいと思います。スクワッチで体を鍛えています。私が元気なら世界中動けるのですが、せめてメールや絵手紙で交信しましょう。

今回も日本人批判で申し訳ありませんが私が生きている限りこれは続けさせてもらいます。もう10年も前に私の家からクルマで35分の所にアトリエと本社があった日本一のキャンバスメーカーがありました。フランスから日本に引き揚げる年にそこの社長夫妻と知り合い仲良くなりました。以来家内のキャンバスと時々油絵具の試作品などもらいました。そして東京で個展をすると初日にきてくれ月間美術雑誌の取材者を呼んで記事にしてくれました。大体は1/3ページカラーでもちろん只です。というのは彼の会社の広告を雑誌の裏表紙の内側1ページ全面カラーで何十年も広告を出していましたからスポンサーの一声電話をかけると飛んできます。そして掲載された雑誌も1冊送ってくれます。ところがこの日本一のメーカーが年々中国製に押されて存亡の危機にさらされ始めていました。いくら品質がいいといっても2倍強の値段です強。その上ここ長い間日本ではバブル期のように作品は売れませんので団体展に出す大作の材料費はできるだけ安いにこしたことはありません。美術雑誌や業界ではもう1,2年前からこのキャンバスメーカーの倒産は噂されていたのでしょう。私が最後に銀座で個展をした初日いつものようにキャンバスメーカーの社長が来てくれまして取材者の記者がまだ来てないとというと彼は電話をかけましたらすぐ来るという返事でしたが結局現れませんでした。後で知ったことですがもう不渡り直前で広告のスポンサーをその時点で降りていたのでしょう。そしてその数か月後倒産しました。私は世の出来事に疎いので彼の倒産も友人が逸らせるまで全くしりませんでした。最後家内が頼んだ木枠に貼った小サイズの10点ばかりのキャンバスを冬の夕方大きなボルボのライトバンでとどけてくれ奥さんはと聞いたら腹が痛いのでクルマに居るというので彼はいつものようにコーヒーを1杯飲んで外に出私たちも見送りにクルマの所で奥さんにご挨拶しようと助手席にいる奥さんに声をかけましたが下を向いたまま顔を上げませんでした。その時点でも私たちは彼らの倒産を知りませんでした。その2,3日後友人が倒産を知らせてくれました。奥さんは悲しみのどん底にいたのでしょう。以来お互いの交信は全くありません。個人のメールアドレスは今も存在していてメールを2,3回当時送っても返事はありませんでした。私より10歳くらいは若いのでまだ76,7歳ぐらいです。話の主題は彼のことではありません。一介の美術の取材記者の意識の構造のことです。美術記者ともあろうものがスポンサーといういわば権力者に従属して彼の審美眼で取材は決して取材していないということです。如何にしてにして1ページ25万円と言われるページを有料で埋めるかが主たる仕事です。東京より地方の学校の絵の教師が一般的に金持ちで中央の公募展の地方出品者が金があるので美術記者は公募展でまあまあの作品に目をつけでその地方作家に連絡してあなたの作品が目につきましたから是非紹介したいつきましては1ページカラーで25万。円ですといって自分のノルマを果たすのです。このプロセスのなかに取材者のアートに対するモラルは全くありません。たまたま美術雑誌の口しか無かったからやっているまででずんぶり力関係の構造に居ることさえ意識していません。日本人が日本の社会にずんぶりひたっているからです。そして日本の美術界の不正義、不公正などの維持温存をしていつまでたっても日本の美術界を本当に国際性と素晴らしい才能を世に出す構造に変えないのです。是は美術界ばかりでなく政治その他すべてに当てはまります。これは20年、30年という単位で日本が世界の競走に負けていく原因を作ります。公正と正義が無い社会では若い人たちは勇気を無くします。今日本に学生運動が全く無くなったのは大人の社会に夢も希望も無くなったということです。若者が老人に見えます。何回か書きましたが私が敬愛する版画季刊雑誌の20年以上もやっている編集長が15,6年前日本の美術界がおかしくなっているのでもう少し頑張ってみますと便りもらいました。私は今日本人が「群れの行動」から一歩も出られずそこで安住していると世界は新しい秩序に向かっていると生きる目標を失い雲の中にいるように茫然となるでしょう。ただ世界が不公平不正義になっているので群れの無意識の行動がもっと無自覚になっていくでしょう。自己意識を鮮明にしないと知らず知らずのうちに奴隷になってしまいます。真善美が如何に人間を人間たらしめるかもう一度若者が意識化しまた真剣に議論しないと日本は二流、三流国家になってしまうでしょう。血縁地縁、学閥、、利益関係などでつながれば社会は一層不公正不正義がエスカレートするでしょう。このような日本になったのはやはり昭和20年8月15日を境に大平洋戦争をしっかりその意味を議論しなくてむしろ曖昧にしていたためアメリカの番犬というかチンのようになったのでしょう。アメリカの次に中国のチンにならないためには国民がこぞって目覚めなければなりませんが今の日本には無理でしょう。そして時代がまた暴力が支配した途端国民が黙ってしまうでしょう。日本はもはやサムライの国ではありません。世界一弱い国になりました。これは日本社会の根本に「人間とは何か」が問われないからすべてがおかしくなっているのです。何回も言いますが日本人が「群れの集団無意識」から脱却して「個(己)」にシフトしない限り世界性は得られないでしょう。集団的無意識は隠れ蓑でお互いの進歩に脚を引っ張る大元です。政治家など此処にぬくぬくしています。私はろくな作品も産めませんでしたが日本人が世界の中でどういう立ち位置にいるかフランスに30年いて日本、日本人というものを学びました。これは私にとって宝です。このことを除いて日本人は世界でも有数の感性と才能を持った国民です。これも島国なるが故の精神の偏向と思います。三菱商事のフランス支社長をやった人が娘が現地の幼稚園にあがって入園式にでたとき保母の園児に対する質問が「あなたは他とどう違うことによってあなたなのですか」という質問にびっくりしたそうです。これは大人にぶっつけてもいい質問です。言語の厳密なトレーニングでは彼らは一枚も二枚も上手です。私は片脚棺桶に入っていますが正常な意識がある間人間学を深めたいと思っています。それがこの世に人間として生まれた意味と思うからです。人間の道は一つ「人間になることです」でも何回か人間に生まれ変わらないと「人間」は分からない程深く広いと感じます。ということは人間の了解やその広大さが「愛」につながって感じるのです。「自他一如」はやはり宗教の根本の一つという私の了解は正しいと思います。

パリの30年で一番聴いた歌は加藤登紀子の学校唱歌を中心でそれはCDからカセットに録音したものでした。引き揚げの時日本に持ち帰りましたがカセットコーダーがこしょうしてヨドバシカメラに故障を依頼した時直って帰ってきたらそのカセットは帰ってきませんでした。損赤で一番好きだったのは「知床旅情」でした。あと何百回と聴いたのはアメリカの女性歌手ニーナ.シモンが歌った「the last rose in summer]で「庭の千草」でスコットランドだったかアイルランド民謡です。仕事中は殆どクラシックを始めシャンソン、フラメンコ、モダンジャズ、アルゼンチンタンゴ、インド伝統音楽、蒙古音楽、ファド、アボリジーニの丸木をくり抜いた音楽などあらゆるジャンルの音楽を聴きました。あとは仏教講話のカセットで聴きました。これはNHK]や日本短波放送でカセット6ケ組や8ケ組できれいな布張りの箱に入っていて結構高く当時2,3万円してましたが仕事をしながら何回も聴けるのでまた友人にも貸せるので2,3万円は決して高くはありません。その他帰国の度に本を買ってきました。これは夜寝床の中に仕事が終わるのが朝の3時でそれから床に入って30分長い時で3時間読んで寝ます。体は弱いので起きるのは午後1時頃です。仕事は3時ごろ始めます。この真夜中の習慣を昼型にしようとするたびに体をこわしましたがついに80日の腎臓移植が成功して退院して昼型にすんなり移行できました。以来遅くとも11時には消灯します。年に2回くらい零時半くらいまでテレビを見ることはあります。屋根裏には大抵9時ごろ上がりますが大抵はブログを書きます、そして赤い豆電磁をつけて音楽を聴きながら眠ります。玄関の間のベッドよりは安眠できます。屋根裏は8畳ありますが天井が一番高いところで2メートル低いところで120cmでエアコンはすぐ効きますので電気代は喰いません。屋根裏にはパソコン、プリンター、良いミニコンポーネント、固定電話、水彩パステルなど描画材料、130冊のパリ時代のスケッチブックがあります。これは屋根裏16畳の半分であと半分の2/3はがらがら空いているので将来油絵のアトリエなります。そこに300Lの温水器もあり便利です。私はネズミ年生まれで狭いのが好きで座って手が届くように配置しています。震災以来10年もここで音楽も仕事もあまり泊りもしませんで結局メドチントは辞めました。震災は私にとっても人生上大きな影響を与えました。今漸く屋根裏が日々の中心になってきつつありますが急に眼がかすむようになり心配しています。30年近く夜中の3時まで仕事をし映画も平均月3本を見それも夜11時頃家を出て帰るのは2時半、旅行者に週刊紙などもらうと朝の7時ごろまで床で読みました。その頃は国際電話代はすごく高くNHKの國際放送も無く、新年に日本大使館が在留邦人のために大使館で「紅白歌合戦」を録画して見せていました。私は一回もいったことありません。だから日本のことは旅行者からの新聞週刊紙は貴重な情報源でした。今は電話は安くまたメールは只で写真も送れ今にして1970年代は弥生時代のようでした。私の友人の女性の同業者など年1回母親に掛けると涙が流れ声が出なかったといいました。彼女は今故郷の県では超有名なアーチストです。パリで頑張れるのは芸大出などより高校を出た人や方面違いで大学を中退をしたような人の方が頑張っている印象です。かく言う私も大学には全くいっていません。5年間遊び惚けました。大学を何とか卒業して絵画を始めたころは母校の高校3年生より下手でした。しかしプロ意識を持ち始め特に結婚してからは頑張らざるを得ませんでした。そんな中人生の友が吐血の血が呼吸腔に入って34歳で死にました。そんなこともバネになり3ケ月でフランス行きを決行しました。家内など何が何だか分からないままついてきました。精神がおかしくなっても当然です。結局アーチストの家庭は配偶者が犠牲にならなくてはならないようになっています。だからって私が楽をしたかと言ったらとんでもありません。アーチストの人生は綱渡りでもあります。人生の半分は半年先食えるか分かりませんでした。それに病気にも罹ります。腎移植前の2年間は年8ケ月しか仕事が体がだるくできずベッドで本を読んだりテレビを見たりしてました。その時家内相当は心細かったと思います。でも1回も実家にSOSを打ったことはありません。フランス人アメリカ人の友人など手を差し伸べてくれました。今も生きてる友人とは交信があります。私がもし語学が嫌いだったら今こうしてかつて世話になった友人と交信を続けてはいなかったでしょう。今では辞書引き引き1時間半もかかって手紙やメールを送っています。語学が好きばかりでなく人間に関わることが好きなのです。私のブロークンフレンチでも真心こめて必死に書くと相手が感動するようです。それがまた書く喜びを増大します。人生はこんなことの集積です。金ではなく真心です。

話はいつものように加藤登紀子からそれてしまいました。加藤登紀子の歌は私には淡谷のり子、美輪明宏、森進一のように上手いとは思いませんが彼女の生き方が素晴らしくぶれないからでしょう。彼女は80歳背も低いですがこの頃メイキャップと衣装がピエロ的で非常に面白いです。私はピエロ(道化)を描くのが好きでライフワークの能面シリーずが40点以上あるのに対して自然と無理しないでできたピエロシリーズが30点以上あります。さすが能面シリーズのように超大作はありません。でも私のこのモチーフへの好みは生得のようです。ピエロ=人間とみているようです。人間は義務感のようなものから解放された時面白いものができるようです。これから何ができるか出るか頭の解放の仕方によるでしょう。