私の知り合いでレジョン.ドヌール勲章を受けた二人の韓国人と日本人の画家をご紹介します。先ず韓国人の画家は1972年にヘーター先生の銅版画の「アトリエ17」で知り合いました。彼は15歳位上で当時独身、戦前日本の大学にも学んだので日本語で対話できるので我が家に他のアトリエ17の日本人アーチストも一緒に招んで歓談しました。彼は16,7年前国際会議のメンバーとしての渡仏してそのまま居ついたといってました。当時何で生きていたのか分かりませんがまあ余裕のあるようには見えませんでした。でも夕食に満足すると韓国語で高らかに歌を歌いました。豪快な人柄を忍ばせました。そして16年ぶりに韓国に一時帰省して一躍韓国で有名な画家になり奥さんを連れて帰仏しパリでも結婚披露が中華レストランであり私たちは唯一の日本人招待客でした。プレゼントにダブルのシーツを持っていきました。そのくらいの余裕しかありませんでした。しかしとても喜んでくれました。奥さんは私たちより2歳くらい上で国民学校で日本語を学んでいましたしその後も日本語を続けたのか私から漱石の「心」借りていきましたから相当の力があったのでしょう。その後彼女は日本でお茶の水のような大学を出てジャーナリストでした。私たちは日本に引き揚げたので共通の友人を通して彼と奥さんの情報は入りました。そして彼は日本でいう文化勲章並みの勲章をもらったそうです。彼は90代で心臓のバイパスを行い101歳かで亡くなりその後フランスのレジョン.ドヌールをもらったということです。奥さんはフランスと韓国を行き来しているそうですがもう90近いですからその内にはフランすか韓国どちらかに死に場所をきめるようになるでしょう。私の観察で韓国人はすごいとおもいます。我慢強いのと体が頑強です。その他韓国人の知り合いに世界的な言語学者で日本語をコンピューターで解析し岩手弁が青森にいくとこうなると分析し彼の研究はフランスで評価され5年か10年に一度評価されると月50万程度の金はフランスから支給され心配なく研究に没頭できます。大学院で講座もちたければ教えることもできます。この人もすごい人でした。この二人しか韓国人の知り合いは居ませんでした。画家の方はサイさんと呼んでいましたが漢字では「韓黙」と書いていました。最晩年は絵を止め新聞紙に「書」を専らやっていました。ハングルでなく漢字だった気がします。とにかく豪快と同時に名誉心の強いひとでした。  

もう一人は日本人で私より10歳ぐらい若い豊橋市の出身で同性愛者で当時フランス人で彼より少し若い警官あがりと住んでいました。フランスでホモセクシャリストの世界には世界的な服飾デザイナー(スチリスト)、アーチスト、小説家、銀行家などいると聞きました。彼はその頃銀行から5,000万円借りてブローニュの森のそばの270ヘーベのお屋敷を買ってすぐ1億5,000万円の値が付いたと言ってました。共通の知り合いが彼の家に泊めてもらったことがありましたが彼が何処で絵を描いているのか分からないほど広かったといいました。彼はジュネーヴに画廊をもっていて当時国連大使だったその後定年で辞め清水建設の重役になった鶴岡さんの応援を受けていました。鶴岡さんの秘書だった人の妹さんの旦那さんが偶然私の高校の3級先輩ということがわかりこの豊橋出身の画家の次に鶴岡さんの応援を受けることになりました。鶴岡さんは東大卒業と同時に外務省に入り最初の勤務がフランスの日本大使館で当時の大使は有名な美食家でフランスは間もなくナチに占領される状況のときでした。鶴岡さんは大使の命でフランス中を美味い物を集めに奔走したそうです。そしてパリの街中でもいろんな交流をフランスの同年とも多々あったのでしょう。その中に戦前はパリの五大画廊に入る「ベルネイム.ジョーヌ」という画廊の息子と友人になります。彼の一家はユダヤ人で50点のルノアールを所持していました。ナチが入ってきて見つかったらユダヤ人ですから全部取られることは間違いありません。それで彼は鶴岡さんに戦争が終わるまで日本大使館で50点預かってくれと頼みました。当時大使館はパリから地方都市に移っていてそこの地下室に50点あずかって戦後50点そっくり返したそうです。鶴岡さんはその時1点くれといったらもらえただろうと私に言いました。その後彼はベルネイム.ジョーヌを父親から引き継ぎました。以来鶴岡さんとは親友になりパリにくると会っていました。彼はエコール.デ.ボーザール(美術学校)の後援会長にもなりました。鶴岡さんが清水建設の代表としてパリにきた時私とその豊橋の画家がベルネイム.ジョーヌの主人に紹介するからと声がかかり時間を指定され1階の今は甥にまかせているギャラリーに顔を出すように言われそこから2階の本宅への扉に案内されました。開けた扉は50cmほどの厚い鉄製のものでした。そこからエレベーターになっていて上がるとまた50cmの鉄の扉開いたら70歳位の白い制服を着たいわゆる執事が出迎えてコートをぬがせてくれました。鶴岡大使と主人は昼食を終え紅茶を飲んでいました。鶴岡さんはすぐ紹介してくれました。そのサロンにはセザンヌ晩年の淡彩画が3点柱にタテに飾られてあり5,60号の油絵は主人が3,4歳ごろ母親にだっこされたポーズをボナールに描いてもらい飾ってありそのほか当時世界的に人気があったスイスの具象作家のやはり7,80号の人物画が飾ってありました。執事がすぐ私にも紅茶を出してくれましたがその中国製の陶器のポットは年代物で美術館に飾られるものでした。お茶を飲むと早速持参した私の作品を所望され全部みてもらいました。そして階下に甥がいるから彼に見せなさいと言われ逆戻りして画廊に降り甥に見てもらいました。しかし彼はこの画廊の方向と違うので預かることはできないと丁寧に断りました。再度2階に上がると豊橋出身の画家が来ていました。そこで初めて彼と出会いました。彼は油で抽象の大作を中心に描いていて階下の甥の画廊の方向とは完全に違っていることが分かっていて手ぶらできました。そこで15分ほど居て鶴岡さんみんなで退散しました。でてものの1分もしない所にアメリア風のドラッグストアーの大きなキャフェがありそこで30分ほど雑談して鶴岡さんと別れました。豊橋の画家とも気があってもう一軒キャフェに入って2時間以上お互いの制作のこと270ヘーベの邸宅を買ったことなど聞きました。その1年後くらいポン.ヌフの近くの大きな画廊3で300号の作品を含め大きな個展のオープニングに私もでました。大盛況でフランスでも評判になったそうです。その頃彼と一緒に暮らしている警官上がりのフランス人恋人を我が家によんで手巻き寿司をご馳走しましたら美味しいと喜んでくれました。彼は私のような出世っ気のない田舎者と違い日本ではドイツ車BMWの日本社長の知遇を得て草月会館で大個展をやり、皇族のお得意を沢山持っている日本料理店の「綿亀」になんて行ってると共通の知り合いが言っていました。しかし彼は私に好意をもったせいか傲慢な態度は全くみせませんでした。反対に旅行者を泊めたり面倒みても後で悪く言われるとこぼしました。黒沢の「乱」が封切りされたとき大きなポスターの「乱」の墨字は彼が書きました。偶然テレビで日本の芸術や伝統についてフランス語で喋ってました。その後彼は豊橋の母校の創立100年記念にそこの美術館で大個展をやりその直後売るのが目的の個展を豊橋のデパートでやりました。その一切のプロデユースを鶴岡さんのジュネーヴ時代の秘書の女性がやりましたがデパートでも売り上げがすごかったらしく彼は彼女に契約のマージンを祓うのが惜しくなったのかデパート側に彼の口座に入金するよう電話したのがその秘書の女性に分かり展示が終わって鶴岡さんの応援が打ち切られました。以後その分私が倍ぐらい面倒を看てもらえるようになりました。毎年1回国際会議にくると必ず昼食に一流レストラン(超一流ではなく)に家内と招待くれました。そして帰りは大使館のクルマで自宅まで送ってくれました。彼は一高時代の親友が清水建設の会長で外務省退官後から清水建設で国際的人脈を活用して重役として働いていました。私が1987年に帰国して銀座で個展をすることを伝えたらそのとき清水建設の会長を紹介すると言いました。すでに15点ほど清水建設で買っていました。それを本格的にしようと言ってくれました。しかし天は微笑んでくれませんでした。9月の帰国の予定でしたが鶴岡さんは5月に韓国での国際会議が終わって帰国してすぐ心臓麻痺で亡くなりました。享年80歳、でも若々しくお元気でした。郡山の友人が鎌倉に行って鶴岡さんに高校3級先輩がやっている鎌倉一の割烹でご馳走になったこともあります。鶴岡さんは人にご馳走したり面倒みるのが好きな素晴らしい自由人でした。帰国のおりご自宅にご焼香にと伺いました。漸くたどり着いたら奥さまが鎌倉からタクシーに乗っては遠いが北鎌倉だとすぐなのにといわれました。鶴岡さんのお好きだったシャブリ供えました。彼はクリスチャンでここには何もなく目白だったかの教会にあるとおっしゃいました。今も懐かしく思います。秘書の女性とは今も年1,2回交信します。今は豪華なクルーズで半年オーストラリア、ニュージーランドあたりを旅しています。あの頃が作家として人生最高のときでした。そして1999年に突然日本に引き揚げます。家内が急に精神に変調をきたしたからです。帰国して3.4年たったある日テレビを見ていたら画面はコルシカ島を映しました。そこは室内で窓から海が見えました。部屋には大きな室内イーゼルが二つあり絵も飾ってあり台所では豊橋の画家がかいがいしくピーマンの中にひき肉を詰めた南仏料理を隣人の助けで作っている最中でした。隣人たちを昼食に招待していたのです。パリから移ってどのくらいになるのか分かりませんし警官上がりの恋人も一緒なのかも画面からは分かりませんでした。当時コルシカの伝統音楽が注目されていてスイスのヨーデルと違った4人組のコーラスが世界的に人気がありました。彼らが教会で歌っているところをスケッチしたりローカル線に乗って乗客と世間話をしながら相手をスケッチしたりパリ時代の抽象が具象になっていました。台所で準備中「椰子の実」がCDでながれて彼はうっすら涙を浮かべていました。その演出はさすがです。あれから20年今もコルシカにいるのかまたパリに戻ったか恐らく74,5歳になったと思います。彼に会ってどういう心境か話してみたいです。その番組で彼がレジョン.ドヌール勲章をもらったと紹介されました。この二人を自慢とも誇りとも何とも思いません。人間それこそいろいろ苦労しながら生きているのだろうと推測しています。共感があるだけです。